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劇しき人々

真暗闇の客席に座る私たちを覆うべく、だんだん音量を上げるその曲に、鼓膜がビリビリと慄いた。

試すように近づいてくる太鼓の音は、ともすれば軍靴の響きにも思えてくる。その音律に言葉をのせるのはどこか可愛げがある女性の健気な声質なのに、過激な歌詞が遅れて頭の中を駆け回る。訳もわからない一抹の恐怖、私ここに座っていていいのだろうか。流れる歌詞のその意味を咀嚼する間もなく、言葉は一直線に私に殴りかかってきた。

「牛のように豚のように殺してもいい いいのよ 我一塊の肉塊なり」

膨張する言葉をただただ注がれながら視界を奪われた僅かな時間は、途方もなく永く感じた。いたたまれない、逃げ出したくなる、ともさえ思う頃、眼前に灯りが見えてこれは舞台だったのだと現実に引き戻された。

これを観たのはいつのことだったのだろう。遡って調べれば、2006年。私は、高校2年生だった。

だからこれまで述べたシーンの印象も、これから述べる情景も、もしかしたら嘘なのかもしれない。しかもさらに何年も経ってから言語化しようとしているのだから。
しかし、私はこう感じた、ということに、言葉の修飾や再構築はあるかもしれないが、それさえも事実で実感で今なお私の中に息づいているものなのだと、覚悟を持ってようやく少しずつ述べたい気持ちである。

その作品の名は、「タンゴ・冬の終わりに」。
戯曲は清水邦夫、蜷川幸雄演出、舞台の冒頭に使われていた曲は、後に調べてみたら戸川純の「諦念プシガンガ」という作品だった。
様々な役柄を演じることによって虚構と自我の境目を失い心を病んだ俳優と、それを取り巻く人々の話だったと記憶している。
シアターコクーンの2階席の上手側のサイドバルコニー席。PA卓から舞台を観ている蜷川幸雄も視界に入る、見切れと俯瞰の視点。私が身に着けた舞台鑑賞眼は、この位置から全体を見渡す眼差しだったのだと思う。

なぜこの作品がこんなに忘れられないものとして残っているのかと問われれば、時機、と答えるのがいいだろうか。
学生運動や革命、闘争というものに疑問や関心を抱き、柴田翔や庄司薫を読んでいた頃、自分の親に向かって、「革命が起きるって、本当に信じていたの?」と問いかけた私、浅間山荘事件を調べて、「世の中を良くしたいという志で、どうして仲間を殺すの?」という純粋すぎる困惑、三池炭鉱の闘争とスト破りの構造、それらへの関心が複層的に絡まり合っているタイミングに、観たことが一つの理由なのだと思う。

蜷川幸雄の作品をはじめとする様々な演劇体験を通じて、舞台鑑賞眼を養った私は、演劇の社会性(それは人間の本質に近づくためのなにかとても大きくて普遍的なもの)の色濃さを感じ、そこに確信を得たいと思って政治学を志した。
古代ギリシャに立ち返れば、ポリスにおいて演劇は市民との共生、自他の認識、その理解を促す切っても切れない関係性に位置していた。
よかった、やっぱりそうだった、と揺れてばかりの頼りない自分に、かすかな慰めと肯定を学問から授かったような気持ちだった。

そこから縁あって公共劇場で働くようになった私は、さいたま芸術劇場の楽屋エリアで、車いすに乗り酸素チューブを鼻から通している蜷川幸雄を見かけたことがある。高校生の時にバルコニー席から視界に残した彼の姿より、本当に痩せてしまった、と思った。
高校生の頃、あなたの存在は遠かった。遠かったけど同じ空間にいた。今は、同じ空間にいるのに、あの頃よりも遠く感じる。この距離が、時間、というものの現れなのだろうか、と思ったりした。

「タンゴ・冬の終わりに」は、彼が死ぬ前の最後の上演作品となった「元禄港歌」の鑑賞の思い出とやがてセットになる。

上司の采配により、関係者席と呼ばれる前から4列目くらいのセンターブロック、私は客席通路脇の、こんなにいい席、一般で買おうと思ったらどれだけの苦労が必要か、と思えるような良席だった。
私のすぐ横を歩きながら振り返る宮沢りえの美しさに、呼吸を静かにしなければならないという緊張感。エンディングのクライマックスに向けて上空から客席前方までぼとぼとと落ちてくる紅い椿の花は、血を流しながら生きねばならない弱者の比喩と、鎮魂のための儀式のようにも思えた。
舞台関係者である前は、この光景を観客も含めて上の方から眺めたであろう。その視点の違いに、私は、これを仕事にすることによって「観客になる権利」を失ったのかもしれない、と静かに思った。

そして、散りゆく椿の花の光景に、「タンゴ・冬の終わりに」の一場面を回想する。

全体のストーリーよりも、なによりも、これは忘れられない。このシーンだけは忘れたくない。

かつてゲバ棒と呼ばれた角材を握りしめ、セクトを表したヘルメット、血が滴るような筋肉の動き。声にはならないが咆哮を上げているに違いない。表情の動きからそれがわかる。舞台から客席目掛けて暴動を仕掛けようとする人々の群れのその動きのスローモーションに、上空から大量の桜吹雪が舞う。上手袖の壁が崩れ、そこからまた風に煽られた花弁が横からも吹き付ける。その重なりはまるで目の前の人々を点描にでもしてしまったかのようだ。背景に流れるカノンの諭すような幻想的な旋律。大勢で何かを目指していた切望と逼迫感、だけどその生々しささえどうしようもなく淋しい。悲しすぎるから、美しく描くしか方法がなかった。そうとでもひとりごちる誰かが、これをただ静かに観ている。もしかしたら泣いているのかもしれない。目をそらしてはならないと、自分に言い聞かせながら。風を受けて飛び散る大量の桜吹雪に目が慣れた頃、やがてそれらが、全てを覆い隠すための雪のようにも見えてくる。雪の降り積む後にやってくるのは、何の音ももう聴こえない静寂だろうか。

「怺(こら)えて 怺えていたものならば
歓びではなく それは
悲しみであるのにちがいない
天のとつぜんの告白に
世界じゅうが しいんとなりをひそめている」(新川和江「雪の朝」より)

絵画や文学なら、まだ時を経てなお誰かに届けることができるのかもしれないが、これは、これだけは、貴方が生きている間にしかこの世に存在することができず、また、その目撃者になれるのは同時代に生まれた者だけなのだ。生身であること、死すべき運命を避けがたい人間の宿命なのだ。

蜷川幸雄が死んで、私が当時勤めていた劇場の台帳から、翌年に予定していた公演スケジュールもぱっと消えて白紙となった。消える、とはこういうことなのだと知った。

関わった人々の多さから、様々な著名人が追悼文を書き、彼を惜しんだ。元職場の上司やスタッフにも、彼と舞台を共にしたものが多くいた。私もまた、一観客として作品を通して彼と出会い、立場を変えたことによる新しい関係性の距離の変化に困惑しながら、私自身はなにも言葉にできないまま、彼との思い出を語る他者の言説に触れた。

その中でやはり印象に残ったのは、既述の戸川純による追悼文だった。

アングラから商業演劇に転向した彼のエピソード、作り手がその意図を決して明かさなかった作品から、抉られた魂の慰めを得ていたもの同士。大きななにかを、ひとつ、諦める、という気持ち。

何年も何年も経って、私もまた「諦める」ということを知った後だったからこそ、答え合わせのように曲と舞台のシーンが再び目の前に立ち現れる。あれを観たとき、私はただただ悲しかった。とてつもない大きな悲しみ。そしてその理由が、今、ほんの少しだけ、わかるのだ。

穏やかさと静けさの奥底に隠した、悲痛な叫びのようなものが。

ここと貴方は安全だと油断している人間を見逃さず、間合いに入られたと思った瞬間に、胸ぐらを両手で掴まれたまま壁へ押しやられる。そしてこう詰めるのだ。

黙って聴け、お前の全部で、これを聴け。果たしてお前に、聴こえるか。

それはきっと、試し、試されながら、この場所に新たな関係性を結ぶための劇薬のようなものなのかもしれない。毒であってもそれを用いる人々、劇的なるものを巡って彷徨う生命たち、どうか教えてほしい。人間とは、世界とは、いったいなんなのだろうか。

私たちは、信じられるかも分からない何かによって許された時間とこの重たい肉塊を引きずって、静寂の中でどんな言葉を手に入れることができるだろう。そしてその言葉は、誰に向けて弾丸のごとく放たれるだろう。

舞台という表現がこの世にあると私に教えてくれたのは母だったが、彼女は私に対して、熱さが胸のうちに溢れているとして、激情の子、と言い表したことがある。自分の中に隠し持つ鋭い凶器の片鱗を、子ども時代から滲ませていたのかもしれない。

やるせない熱は他人と自分を傷つける刃でもあると知る私に、それをここに載せることが出来る、と見せてくれる場所。

それが私にとっての劇場だった。

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