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【過去記事/番外編】20160124 花野の舞い

これはブログではなくfbに載せていた文章。タイトルは今考えた。笑

仕事の同僚や上司とはSNSで繋がらないように、と意図していたのだが、人伝てに当時の上司がこの文章を読んだみたいで、「あなたは書き手になりたい人だったの?」と突然尋ねられたことがあった。適当に誤魔化したのを、今でも覚えている。

そして、蜷川幸雄にまつわる思い出と、舞台と観客の関係性については、ずっと書きたいと思っているテーマだな、と改めて思い出す。

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今日は、ご縁あって横浜の赤レンガ倉庫にダンスコレクション(ダンコレ)のオープニング作品「無・音・花 Silent Flower」を観に行きました。

丸山純子さんの創った真っ白な花が舞台一面に広がる中、静かに踊るダンス作品。
ダンス鑑賞眼にはあまり自信がないのですが、
一滴一滴落ちて沈んでいくようなピアノの音に、たゆたうような振り付けが相まって、ふと、水底にいるような気持ちになりました。
けれど、男性ダンサーと女性ダンサーの二人のダンスシーンから、女性のソロシーン、群舞への流れの中で、落ちるように聴こえていたものが逆に登っていく音のように感じられて、虚しさのその先を目指す踊りなのかもしれないと思ったとたん、胸に迫る瞬間を覚えました。
切なくて、美しい作品でした。

花、をみていて、昔(今も?)モチーフとしての花にすごく興味があったことを思い出しました。
私の2016年最初の舞台鑑賞は、蜷川幸雄演出の「元禄港歌」だったのですが、絶え間なく落ちてくる赤い椿の花が、血を流し命を削る弱者の比喩に思えたことも私の記憶に新しく、関連して思い出したのが、松本大洋の「ZERO」という作品でした。
大昔に読んだので、定かではないのですが、強すぎるボクサーの孤独を描いた話で、「花だ、花がいい」というモノローグが随所に散りばめられる物語のエンディングは、
「花だ、次生まれる時は花がいい。春に咲いて、夏には散る。そしたらおまえは、俺の隣りに咲いてほしい。」という言葉でしめくくられます。(文献手元にないので記憶で書いていますが…)
それを読んだ時の切なさが、自分の想いや思考を絡めるように、思い出されたのです。

普段、作品の感想とかを、あまり書きません。
話す必要がある時は話すのですが、自分の思ったことや、考えたことを、他人と自分のためになるべく隠しておこうと、20歳頃から、意識的に思っていました。
自分の語る言葉に、自信も責任も持てないこととそれは表裏一体でもありました。

ここ最近、なんとなくですが、その終焉が近づいているように感じています。
自分の立っている場所を明らかにして、自分の考えを、述べ始める時期が、もう少しで始まるのかもしれません。

書くことと、書かないこと。
その間で、今は色々なことを思っています。

「迷ったかもと思えば書き、ここはどこだと不安になれば書き、もうだめだと絶望すれば書いた。書くことでしか、どこへもいけないし何も解決されないと思っていた。いや、今も、思っている。」(角田光代『ロック母』あとがきより)

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