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ドライブ・マイ・カー 妻の秘密より優先されるもの

余程の話題作でなければ近所のイオンにはかからず、高速の距離にあるモールまで足を運ぶしかなかった『ドライブ・マイ・カー』何とか観ることができた。
ネットで予約した時、座席は3人しか埋まっていなかった。月曜日だというのに始まる時には、あらかた埋まり混雑してしまった。
「さすがにアカデミーだなぁ」
予告がはじまってもチラホラ入ってくる人がいる。
軽くイラッとしながら前を横切るひとを見送った。 

主人公家福の妻、音という。
音はセックスしながら自分が紡ぐ物語を覚えていない。朝、家福に語らせることで物語を脚本にしていく、という設定だ。ややこしい。
語られる物語のヒロインは村上春樹の小説に頻出するエキセントリックな少女だ。片思いが暴走気味で病んでいる。ヤツメウナギの登場も既視感、繰り返されるこのモチーフは村上春樹の短編の焼き直しだ。村上春樹作品に出てくる女の人は、だいたい幻想の女人とでも言うか、想像上の怪物みたいな中身なのに実態がない。
それでも今回の映画では女優の身体性と演技力の賜物なのか、とても神秘的で魅力的な音の造形だった。後半では、家福の専属ドライバーとなるみさきの魅力が、観ているひとを惹き付ける。
これも女優の身体性が音やみさきを再構築したことによる幸運な成果だろう。

音は亡くなった4歳の娘の不在に喪失感を抱えている。家福は夫婦のセックス中、一連の儀式を経て紡がれる物語を音が脚本にすることで娘の不在を乗り越えた。と言っていた。それは家福の幻想で、音の方は決して乗り越えていなかったのではないか。
出産の比喩なのだろう。娘を亡くした夫婦の共同作業としては変わっている。
語った記憶のない妻に、逆に語って聞かせる物語とは、奇妙だが、設定自体はミステリアスだし性的モチーフをよく使う村上春樹作品だから成立するとも言える。
でも、そんなことが有り得るのか。
覚えていないわけがないだろうと思うのだ。音は元女優で、演じているような佇まいともみえる。
この一連のアウトプット自体が仕掛けになって家福に当てつけている。
私はこんなにも傷ついているのですよ、と。
セックス中に語る風変わりな物語を媒介としなければ、対峙できない夫に心底失望しているのではないか。
演出家であり、俳優でもある家福は、共犯となり、この儀式を恭しく執り行っている。
映画では他の男と(この場合高槻)浮気することで、心の穴を埋めている?らしい。その穴は現在進行形で家福にどんどん穴をひろげられている。
家福はそれを美しく、いいように解釈している。
音は静かに怒っていたのではないか。
音が再び子どもを望まなかったことも、本当にそうか?腫れ物に触るように扱われたことへの趣向返しではないのか。物分りのいい夫でいることが音をつなぎとめる最適解なら、見ないふりをしていたのかもしれない。

この映画は男性性の回復の文脈で捉えられることが多いようだ。音の傷に言及はない。原作が女性に対して空虚であるからここでの音も死んで退場してしまうことで口なしにされてしまった。その方がミステリアスだからかもしれない。
浮気相手の高槻に、家福に語らなかった物語の続きを語っていたのも夫を大事にしていたと同時に失望していたからで、高槻は選ばれたのだ。
高槻が家福に突きつけたものは、物語の続きを語るに及ばず、要するに選ばれなかったという現実だ。
高槻、家福とみさき3人がいる車内のシーンは何層にも込められた意図が張り巡らされた山場のシーンだ。高槻は妖しく、深淵なる暗いもの、それ自体のような存在感だ。舞台の演出のようで、心に迫る。
家福の分身であるサーブにドライバーみさき以外に妖のような高槻を迎え入れたのは、音について決定的な何かを聞く覚悟であったかもしれない。が、高槻からは肩透かしのような「人の心を全て理解は出来ない」という暗に「あなたに理解出来ないし、しなくてもいい」という宣告の言葉だった。
家福が本当に対峙するべきだったのは、高槻ではなく、子どもの不在に深く傷ついた音だった。浮気について音に問うのでは、やはり家福は自分の悲しみにしか目がいっていない男性でしかない。

映画は小説ドライブ・マイ・カーにあるいくつかの短編から紡がれている。小説を読む限り、浮気をした妻は刺激を求めていたのが理由だ。映画では「音」の造形が原作より魅力的になったから単なる浮気ではない何かが、立ち現れた。
魅力的な音が実在したことで、家福の「きちんと悲しむべきだった」は音に対しても掛かって来る言葉だ。音は何を抱えていたのか考えてみたのだろうか。私の違和感はそこにあった。
くちなしにされてしまった音に、秘密を抱えて死んだ妻に、夫で埋まらない穴を他の男に求めた妻の「きちんと悲しむべきだった」理由について示唆があれば救われた、たった一言でも。
家福は「きちんと悲しむべきだった」し、それはそうだろうと思う。だが、音にもそれは当てはまる。
人はみな「悲しむべき」時に悲しむべきなのだ。

そして、もうひとりこの映画で悲しむべき時に悲しむことが出来なかったみさきは、家福の失った子供と同じ歳であり、ここでも父になれなかった男のモチーフを結びつけた「なくした子の歳を数える」父、が一応登場する。村上春樹は子どもの居ない夫婦についてテーマにすることが多い。が、映画ではみさきを娘と単純に重ねるようなことをせず、喪失を抱えた同志のような間柄を繊細に描いている。
映画のシーンは父として機能しているが、なるべくそうならないよう努めて描いた、ともみえる。
現代で父になることはそんなに必要なことであろうか。そんなところがその意図だろう。
みさきの物語にも父は登場しなかった。
あえて家福が父になる必要はないのだ。
中学生の頃から夜の仕事への送迎が、母との時間であったみさきにとって、車内空間の共有は特別なものだった。言わばふるさとのようなものだ。
運転することが生きることと同義だったみさきを、サーブという自分の分身でもある車に受け入れることは家福にとって他人に心を閉ざした頑なさを解きほぐす契機となり、それはみさきにとっても他者を受けいれる契機となった。
みさきは本を読む習慣を持ち、毎日聞いているうちにチェーホフに興味を持つ好奇心のある子で、相当の感性を持つからこそ家福も車内での時間を共有するうち彼女に心を許した。みさきも「大事にされているのがわかる」サーブを通して家福を理解した。
みさきは過酷な過去だが、母の他人格「幸」は、やりすぎだったかもしれない。あれはなくともみさきは充分辛いし、潔い。ヘビースモーカーなのは必然だが、煙草をアイテムにしたのは小気味いい。
現代で煙草ほど気を遣うアイテムはない。それでも煙草を小道具にしたのは正解だ。
みさきの過酷な10代を表現し、家福の解放も表現した。2人で煙草の煙を交互に手を伸ばして車外に逃すシーンはその象徴だ。いいシーンだと思う。
最後、みさきは韓国で舞台に関わっているのだろうか。サーブは家福の存在を匂わせている。それでもみさきに車以外の何かをもたらしたのだろう。
良いラストシーンだった。
全ての俳優は素晴らしく、特に外での舞台稽古で韓国と中国の女優、手話とセリフでやり取りするシーンは本当に「何かが生まれた」シーンであった。これを監督の注文通りに再現できる役者という職業は本当に尊敬に値する。高槻のオーディションのシーンも妖艶で演技の引き算足し算本当に思いのままなのだ、と思うと俳優には頭が下がる。
何よりチェーホフや多言語での劇演出など何層にも重なった脚本は緻密で、誰もが言っているけれど3時間、あっという間だった。

いろいろあるけど、生きていかないと。
わかっているけど、ただ生きていくことはこんなにも難しい。
既存の村上春樹的なエッセンスを残し、登場する女性に身体性を帯びさせたことで男性に傾いたお話が少しだけ、本当に少しだけ女性に傾いたのかなと言うのが鑑賞後の所感だ。
本場のオスカーにノミネートも意外ではない。
多分良い結果なのだろう。

#ドライブ・マイ・カー  #アカデミー賞
#西島秀俊  #三浦透子 #霧島れいか #岡田将生
SpecialThanks oniku

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