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寂しい人へ

 寂しい。寂しくて仕方がない。
 ぼくは、自分は、ほんとうに寂しがり屋だとおもっている。寂しさのプロフェッショナルなんじゃないかと、自分のことをおもう。そんなのがあればの話だけれど。
 寂しいんだよね。べつにかなしいわけじゃない。何かにムカついているわけでもない。他のどの感情とも違う。ただ、ぼくは、寂しい人だ。
 人は、何で寂しい気持ちになるんだろう? と考え続けてきた。それについて、ぼくには考えがある。何と言っても、寂しさのプロだからね。きょうは、そのことについて書きたい。

 いきなり結論から書いてしまう。きみは、なんだ、そんな単純なことなのか、とあきれるかもしれない。でも、ぼくは、この答えにたどり着くのに、十五年以上かかっている、とおもう。
 結論。寂しいのは、友だちがいないからだ。
 こう書くと、そんなに当たり前のことを気がつくのに、そんなに時間がかかったのか? ときみは言うかもしれない。でも、そうなんだ。寂しい人は、自分を強い人間だとおもいこみたい人だ。だから、自分は、ひとりでも生きていけるとおもいたいんだ。でも、そんなのは嘘だ、とぼくはおもう。それは、自分で自分に嘘を吐いていることになる。

 だから、正直に言いましょう。友だちがいなくて寂しいんだ、って。
 たしか、英語の歌でこういうのがあった。「みんな誰かが必要なんだ」。そういう歌詞の歌だ。映画の「ブルース・ブラザーズ」で聞いた。きみは認めたくないかもしれないけれど、あれは、その通りだ。みんな、誰かが必要だ。
 でも、もちろん、それが、誰でもいいというわけじゃない。
 あのジョン・レノンも「ヘルプ」という曲のなかでそう歌っている。「ぼくは、若い頃は、自分ひとりでやっていけると考えていた。でも、いまは、それが間違いだったと気がついたよ。たすけて! 誰かが必要だ。でも、それが誰でもいいってわけじゃないんだ」ってね。
 ぼくは、この文章を読んでいるきみにも、「誰かのための誰か」になってほしい。そうおもっています。

 さて、きみは、この文章が、ここで終わりだとおもいますか? でも、これくらいのことだったら、べつにプロじゃなくても書ける。それに、深刻な寂しさを抱えている人間には、これだけじゃ足りないんだ。だいたい、どうやって友だちをつくればいいのか、っていう肝心の部分が抜けているよね。
 たしかに、ぼくは、さっき、これが結論だ。と言って、「寂しいのは友だちがいないからだ」と書いた。でも、それは嘘です。ほんとうはそんなに簡単なことではない。だから、ほんとうのことを言おうとおもう。

 きみが寂しいのは、きみが、自分自身を見失っているからです。自分のことが、わからないからだ。誰かに、「あなたはこうなんだよ」と言ってもらえないと、安心できないから。だから、きみは寂しい。
 きみは、音楽を聞いていても、自分の好きな曲がわからない。映画を見ても、ほんとうにそれがおもしろいのかどうか、わからない。他の人がいいと言っていたから、という理由でいいと言う。きみのことを友だちだと言ってくれるあの人のことが、ほんとうに好きなのかどうかさえ、きみにはたぶん、わからない。ぼくたちは、友だちなんだろうか?

 自分のことが、わからない。自分自身の存在を、とても空虚にかんじる。だから、それを満たすために、誰かが自分について、何かを言ってくれるのを待っている。そういう意味で、ぼくらは他人を必要としている。自分ひとりでは、自分の存在をはっきりとかんじとることができない。
 ぼくは、これが寂しさの正体だとおもう。
 だから、寂しさを克服するには、自分で自分を知る必要がある。自分の脚だけで立つ必要がある。自分が、ほんとうは何をかんじているか、自分でそれをわかるようになる必要がある。
 だから、きみには、たくさん音楽を聞いて、たくさん映画を見て、たくさんの人と出会って、それについて自分がどうかんじるか、人の意見に惑わされずに、自分の心だけでかんじるようにしてほしい。そして、自分がほんとうは何を望んでいるのか、何を願っているのか、誰のことを好きなのか、そのことを知ってほしい。

 これが、ぼくの考える寂しさを克服する方法です。間違いないです。プロの言うことだからね。この文章で、ぼくが書いた通りにすれば、きみにもいつかは友だちができるんじゃないかな。
 でも、最後に、これだけ言っておくと、寂しさは、必要なものなんですよね。寂しさ、というとネガティブな面ばかりが強調される。でも、それは必要なものでもあるんだ。なぜなら、誰も、完ぺきには自分の脚だけで立つことなんて出来ないから。みんな、誰かが必要だ。そのことを忘れないでほしい。寂しさを完全に克服した人間なんて、ぼくはつまらないとおもう。

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