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【Yohji Yamamoto】 非西洋的なデザインで世界を魅了するファッション界のマエストロ

ファッションデザイナーという職業に就けなかったら犯罪者になっていたと冗談まじりに語る彼の人生を振り返っていきたい。

その前にまず、自己紹介をさせて頂きたいのですが、現在東京の某服飾学校に通っていて、将来的にデザイナーを目標に勉強をしています。

なので、主にファッション関連の記事を多く書いているので気に入った記事などございましたらフォローして頂けると幸いです<(_ _)>


山本耀司の誕生


山本耀司は1943年10月3日に東京で生まれ、父を戦争で亡くし、歌舞伎町でオーダーメイドの洋装店を営む母親に育てられます。※ちなみに母親は文化服装学院卒業生。

高等卒業後、慶應義塾大学法学部に入学することになるか、ここで彼の人生の起点となる出来事が起こる。

その時の状況を彼は

大学に入って以降は、好きに生きてきました。大学は慶應義塾だったんですが、周りにいるのが2代目とか3代目ばかりで、みんな豪邸で暮らして将来も約束されている。あまりにもスタートラインが違うから、社会に出る気がまったくなくなったんです。しばらくはバックパッカーとして世界を放浪していました。

※バックパッカー(英語: backpacker)とは、低予算で国外を個人旅行する旅行者のこと。 バックパック(リュックサック)を背負って移動する者が多いことから、この名が付けられた。

と話します。

先述したように社会に出る気が全く無くなった彼は、母親が営む洋裁店を手伝いたいと申し出るが、母親には「何のために大学に行かせたの?」と激怒されてしまう。

しかし、もし本当に洋裁の世界を生きていきたいということならと、文化服装学院への入学を勧め、同大学を卒業後、文化服装学院へ入学する。(※山本氏は当時、入学をする理由は他に「社会へ出る前のモラトリアム(遅延)を求めた」と語っている。)

入学後、在学中に若手デザイナーの登龍門と言われる『装苑賞』『遠藤賞』を1969年にダブル受賞。

『装苑賞』受賞の賞金と『遠藤賞』の特典であるパリへの往復航空券をもらった彼は1年間近くパリに行くが、時代はプレタポルテ創世記

自分が学校で勉強していたオートクチュールはなんの役にも立たず、『俺は何者でもない』という強烈な挫折感と絶望感を味わった。

そして後のWWDJAPANのインタビューで彼は

『知りたいならインターネットで検索するな。自分の身体で歩き、触れ、嗅ぐ。“体験”という言葉は、“体”で“験(ため)”すという意味だ。頭でしかものを考えられないヤツは、デザイナーにはなれない。

と話す。

これは若き日のバックパッカーとして世界を放浪していた経験や、一年近くパリに行って服飾を学んだ経験がこのような考えに至る影響を与えることになったのかもしれない。

こんな時代背景もあって山本氏は自身もプレタポルテを手掛けることを決意する。

株式会社「ワイズ」設立

そしてパリから帰国後、歌舞伎町の母親の洋装店を手伝いながら1972年に自身の会社である株式会社ワイズを設立し、高級既製服(プレタポルテ)の展開を始めることなる。

初めて展示会を開くもバイヤーは3人程しか訪れず、当時作ったテーラードスーツなどは全く売れなかった。

しかし、別の展示会にてオーバーシルエットのレインコートを出したことをきっかけに徐々に注文が入り出し、1977年には東京で婦人服のコレクションを発表し、これが大きな転機となる。

東京コレクションの前日、ショーの為のサンプルの服をみて納得が行かなかった彼はその服を洗濯機で洗うようスタッフに頼み、アイロンもせずにシワシワの状態でショーに挑んだ。

酷評かと思ったがそれは正反対の評価だった。

洗ったことにより出来たシワによって、むしろ素材は力強く見え「しわの美学」などと言われた。

当時の女性の服は保守的であったり、男性からみて美しいかどうかという傾向があった。

しかし、彼が作りたいのは自立しようとしている女性を応援するような労働着であり、そんな彼の思想がこれまでの既製服と違う価値観や、美しさを打ち出したと評価され一気にブレークすることとなる。

そしてその4年後の1981年にブランド「ヨウジヤマモト」を設立。

東京でコレクションを行ってからの10年間はデザインするのが間に合わない程洋服は売れ、死に物狂いで働いていた為その時の日本の出来事や流行などは全く覚えていなかった。※この10年間を山本耀司さん自身で「失われた10年」と呼んでいるそうです。

黒の衝撃


1981年、山本耀司は川久保玲とともにパリコレクションでデビューし、そしてこのコレクションはジャパニーズモードの新時代の到来を告げるものとなった。

ヨウジヤマモトは当時喪服を連想したり、反抗を意味する色としてタブーとされていた“黒”を前面に押し出したショーを発表。

彼らが打ち出した洋服の構造や生地の組み合わせはかなり非西洋的で、当時のシルエットは「身体に沿ったシルエット」が主流であったが身体と服の間に空気を纏うような太いシルエットを提案。

そしてボロ切れのような穴の空いた加工やアシンメトリーなデザインは彼ら(西洋人)にとってはかなり衝撃的なもので、それは服だけに限ったことではなく、モデルの歩き方も従来と異なり、ポーズもとらずに帰ってしまう為、当時のカメラマンからはブーイングの嵐だった。

このようにヨウジヤマモトが打ち出したコレクションは当時のファッションの概念からは遠く離れている奇想概念のようなものだった為、多くの人々はその光景を飲み込むことが出来なかった。

ファッションプレスにはコレクションでボロ切れのようなルックを出したことから”貧乏主義”と書かれていたり、フランスのファッション雑誌には「爆弾に当たって切れ切れになったような服は世の末を見るようだ」などとかなり批判的な意見が書かれた。

しかし、そんな批判的な意見と同じくらい肯定的な意見があったことも事実で、次第に批判的な意見は少なくなっていく。

そして、タブーとされていた黒を基調としていたり、 " 貧乏主義 " と評された服作りを行ったことにより新しいファッションの概念を生み出したことからこのコレクションは“黒の衝撃”と称されており、時代に流されないその反骨精神がモード業界に革命をもたらすこととなり、世界のファッショニスタを魅了していきます。

そして後にこの反骨精神について

戦争未亡人の一人息子として貧しい環境で育ったことが原点ですね。ミシンの音とアイロンの匂いのなかで、一所懸命働いている母親を通して世間を見ていました。それが反骨心が生まれたきっかけです。

と話しています。

日本でもその波紋が広がり、街にはヨウジヤマモトやコムデギャルソンなどの黒い服で全身を纏った若者たちが溢れ、「カラス族」と呼ばれた。


経営破綻


2009年、ユニクロを筆頭にファストファッションが普及してきており、それに伴いプレタポルテやデザイナーズブランドなどの売り上げは減少の一途を辿った。それに拍車をかけるように若者も以前と比べ、ファッションにかけるお金は愕然と減少していた。

そんな状況の中でも、株式会社ヨウジヤマモトは引き続き大量生産で安価な商品は販売せずクオリティに重視した服作りを行い、そして海外に新規出店をし続けていくなど、強い意志と攻めの姿勢を貫く。

しかし、こんな大きなブランドであっても社会の流れに反抗することは難しく、厳しい経済的状況が続いてしまう。

そしてその結果約60億円の責務超過をしてしまい、実質倒産状態に陥ってしまうが、投資会社インテグラルに事業を譲渡し、チーフデザイナーを山本耀司が務める、という形で早期の再生を図った。

最近のヨウジヤマモト


昔のヨウジヤマモトは本当の服好きしか着ないような印象がありましたが、最近では別ラインの増加や様々なアーティストや俳優とのコラボレーションを行なったことにより、客層が老若男女問わず幅広く着られるようになっています。

そして最近のコレクションでは派手なグラフィックやメッセージが書かれたデザインが目立つようになりました。

これはヨウジヤマモトの服が好きで着ている人と山本耀司の反骨精神に魅了され、結果として服を着ている人とで賛否は別れますが、私自身は山本耀司さん自身がしたいことをすればいいと思っているので自由に服作りをして頂ければと思います。

これからも山本耀司さんのクリーエションには目が離せなそうです。





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