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⑩エピローグ - 責任と自立・愛と自由

「自立」という言葉を聞いて何を思い浮かべるでしょうか?
大抵は《何もかも自力でこなせること》ではないでしょうか。

しかし、これは大間違いです。
自力で実現できることなど僅かで、本当はすべて他力という合の連携によって成り立っています。

出会い・ご縁・カルマ・因果・引き寄せの法則
様々な言い方がありますが

「現実」とは、本音と建前に対する共鳴が「実際に現れた状態」であり
それは《あなた自身の意志の現れ》に他なりません。

世の中が悪い、時代が悪い、国が悪い、若者(老人)が悪い・・・
現実に不満がある時、人はつい原因を外側に探して《言い訳》しがちですが
そもそも、現実とは《あなたを支配するもの》ではありません。

自由とは人生の主導権を放棄しないこと

出来上がった世界の中にあなたが居るのではない
あなたが居たい世界を自ら選び作っている

あなたはいつだって《世界を変えるチカラ》を持っています
それを認めることが「責任」であり「自立」なのです

言い訳をしないとは「どんな悪い結果でも我慢して苦痛に耐えろ」という意味ではありません。

「これは合わない、方向を間違ってるな。」と感じた時、それを選んだ理由(原因)を他人や環境のせいにして「仕方ない」と諦めても、状況は何も改善しませんし同じすれ違いを繰り返します。

「自らの意志で選んだ結果である。」と受け入れた上で、何故それを選んだのか本音に問いかけると、そうなった必然性が見えてきます。
すると次の選択は《より合う結果》へと変わり、失敗も成長の糧となります。

「意志」とは「己の人生の主導権」です。
責任転嫁や被害者意識は主導権の放棄となり、いつも周りに翻弄され、後手で対処するだけの《不自由な存在》へと自らを貶めることになってしまいます。

「自由」とは「主体性」です。
自らの意志で選び、その結果と責任を受け入れる覚悟。
それが、あなたを《あなたの人生の主導者》にします。

幸せは自己愛のピタゴラスイッチ

共鳴を歪めない為には、自己愛を喪失しないことが要です。
ラブレスは多かれ少なかれ誰しも抱えていますが、本当の問題はラブレスを隠したり、綺麗なラベルで飾り隠すこと。
それは本来求めていた共鳴先を変えてしまい、悪循環を引き起こします。

ラブレスは認めて、受け入れて、許した瞬間に役目を終えます。
自己愛を傷つけた原因を恨み憎み続けるのではなく、その傷すら「より自分を素敵な存在へする為の糧」だと肯定する。
それは自己愛を守り、愛の連鎖(幸せ)を生むトリガーとなります。

幸せとは愛が在る状態
愛は物事の共鳴&連鎖反応
共鳴&連鎖反応は自己愛から発生する
自己愛とは本音を許す状態
本音は生まれた時からそこに在る

幸せを手にする方法とは、本来どこまでもシンプルなこと。
「自分を愛すること」
どこまでも、それだけなのです。

褒められるような何かをした「見返りのご褒美」ではありません。
善悪、優劣、取り引きでもありません。

現実は「あなたらしさ」を響かせる先にある自然な共鳴現象でしかない。

自分を愛したい気持ちを素直に認めて
言い訳せずに、他力を活かして、生きることが
愛=幸せ=自立=自己責任=自由であること
自分を愛したい気持ちを隠して忘れて
言い訳をして、自力で抱えて、生きることが
ラブレス=不幸=依存=責任転嫁=不自由であること

それが、私の愛の定義です。
愛の共鳴と拡大、存在のネットワーク、無限フラクタルの渦の一片から。
どなたかの心に響けば幸いです。

お読みくださり、ありがとうございました!

意識=意志=観測=影響力=存在=愛

私という現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといっしょに
せわしくせわしく明滅しながら
いかにも確かに灯りつづける
因果交流電燈のひとつの青い照明です

(光はたもち その電燈は失われ)

これらは二十二箇月の過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね

(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)

ここまでたもち続けられた影と光のひと鎖りずつ
その通りの心象スケッチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論も考えましょうが
それらも畢竟こころのひとつの風物です

ただたしかに記録されたこれらの景色は
記録されたその通りのこの景色で
それが虚無ならば虚無自身がこの通りで
ある程度まではみんなに共通いたします

(すべてが私の中のみんなであるように
 みんなの各々の中の全てですから)

けれどもこれら新生代沖積世の巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらの言葉が
僅かその一点にも均しい明暗のうちに

(あるいは修羅の十億年)

既に早くもその組立や質を変じ
しかも私も印刷者も
それを変らないとして感ずることは 傾向としてはあり得ます

けだし我々がわれの感官や
風景や人物を感ずるように
そしてただ共通に感ずるだけであるように
記録や歴史 あるいは地史というものも
それのいろいろの論料データといっしょに

(因果の時空的制約のもとに)

我々が感じているのに過ぎません

おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当の違った地質学が流用され 相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらい前には 青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもい
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層 きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

 - 宮沢賢治 『春と修羅』より

自然栽培・オーガニック食品の生産者に還元します