#3 コロナと暮らしと働くこと
きっと、このコロナ禍の中で、人々は気づき始めている。
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外出自粛の中ではデリバリーや宅急便が今までになく重宝されているけれど、平時でもモノを運ぶ「流通」がないと生活に必要なものを手に入れられなくなるということ。(しかし、その「流通」を担う方々の労働条件は往々にして過酷だった)
リモートワークできる職種と、できない職種があって、
できない職種は介護・保育などのケア労働やライフラインの維持管理といった、人間のいのちに不可欠な仕事であること(しかしそれらは今まで低賃金だったりした)
私たちが普段当たり前のように享受していた生活の基盤を支える「サービス」による「便利」や「快適」が実は多くの人が働くことによって成り立っていたこと。
そんなの、当然だ。誰だって知ってた。この世に必要ない仕事なんてないっていう言葉は何回も聞いた。
けれど、こんな状況になって、改めて思うのではないか。
今宅急便を届けてくれる人も、スーパーでレジを打っている人も命懸けで仕事をしてくれている。仕事をしなければ「国民」(という言葉は使いたくないけどそれくらいのレベル)の生活ができなくなるから。
もちろん、最前線で懸命に治療にあたってくださっている医療従事者の方々の働きもそうだ。
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「お金があれば、何でもできる。お金さえ払えば何でも買える。」
資本主義社会の中で、この言葉が持つ意味は一つだった。この言葉の「お金」には今まで(紙切れと金属片という)文字通りの意味しかなかった。
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でも今、この「お金」という文字には、そこで働く人の存在が透けて見えるようになっているのではないだろうか。
サービスを提供してくれているこの人もまた、私と同じように感染リスクがあるというフィルターを通し、無機質に思われていた「市場」や「経済」に、人間の体温や感情を感じ始めているのではないだろうか。
人が生きる社会を成り立たせているのは、お金じゃない。
そこに「働く人」がいないと何もできないということがリアリティをもって感じられるようになっているのではないだろうか。
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きっと、このコロナ禍の中で、人々はひしひしと感じ始めている。
様々な面から、私たちの生活を成り立たせている「人間」の存在に。
人間は、一人で生きているのではなく、どんな形であれ、「仕事」や「消費」を通して、どこかの誰かとつながっていること。その人たちのおかげで自分の生活が保たれていて、そしてまた、自分の働きもどこかの誰かの生活を支えている、ということを。
(私は今、仕事では使い物にならなさ過ぎて、こんなことは思えないけれど…)
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私の親愛なる友達の名言を最後に。
「24時間365日、一分一秒を、人に支えられて生きています」