『心配性か楽観的か』
yukalog︎ *⋆✈2020-04-04
大阪府心配性出身の私。
子どもの頃、必ず寝る前はガスの元栓を確認(しかも目視ではなく確実性の高い手で確認!笑)し、家族での車のお出かけでは、父親が100kmのスピードを超すと全力で怒っていた。そう、まさしく家内警備。豊かな想像力はマイナスへ転じた時は厄介で、ガスの元栓の締め忘れで火事になることを想像し、100km越えたらすぐに事故ったり警察に止められることを想像しては心を痛めていた。
子どもの頃の手帳を見返すと「私の直したい所→マイナス思考」と書いていたし、心配したくないのに心配して、その心配している時間がしんどい(心配のほとんどは起きない)と痛感していたので、プラス思考で楽観的な人が本当に羨ましかった。
そんな大阪府心配性出身の私だが、今は「起きるときには起きるやろ」とだいぶと楽観的になった。もちろん心配性が完全になくなったわけではないけれど、その顔がでてくるのは少なくなった。
今日、ふと、不安が渦巻く今の御時世ということも相まって、そういえばどうやって心配性を克服(?)してきたかなと考えてみたので綴りたいとおもう。
①心配性でいたいか本気で考えてみる
心配性というのは(というか考え方全般)、ある種の癖なんだと思う。太りたくないのにチョコレートを食べてしまうように、心配したくないのに心配してしまう。思考回路が心配という回路しか開通していないかのごとく、そうなってしまう癖なんだと思う。
あとは、心配性でいることで得られるものが本人の自覚・無自覚関係なくあって、だからやめられないというのもあるのだと思う。
ある時、このまま心配性でいたいのか真剣に考えたことがあった。当時、楽観的になることの怖さは「防げるはずのものが防げなくなるんじゃないか」というものだった。心配性でいた方が、リスク回避の可能性の幅が広がると心のどこかで思っていたのだ
あとは楽観的になる良さを考えてみた。それは「精神的に幸せな時間が増える」というものだった。心配している時間というのはあきらかに精神衛生上よくない(私の場合)。心配というのは引きずって考えてしまうので、精神上よくない時間が増える。このまま心配性でいたいのか否か、真剣に考えてみた結果、結局コトが起きるならば、幸せな時間が多いほうがいいという結論になった。
②大丈夫だった、を、重ねる
心配性を克服(?)しようと、自分の中で「大丈夫だった」を増やそうと思った。
心配性というのは【自分が心配したから→大丈夫だった】を重ねてしまう結果、より心配してしまうというサイクルがあるんじゃないかと思う。なので、【心配しない→大丈夫だった】という経験を自分の中に蓄積させようと思った。
ガスの元栓を1回確認し、寝る直前にも確認していたのを、寝る直前だけの1回の確認に減らしてみたり、親がガスの元栓を締めているだろうと信頼して、ガスの元栓を確認しないというのをしてみたり。
そうして、「一回の確認でも大丈夫だった」「確認しなくても大丈夫だった」という”大丈夫”を増やしていった。
心配性というのは、人やコトを信頼していないってことなのかなとも思った。
③「何かあった」を乗り越えられる、自分への信頼をつける
心配性というのは「何かあったら」という恐怖がある。逆にいうと「何かあっても大丈夫」と思えたら心配性は克服できるんじゃないかと思った。
そういう経験がなかった子どもの頃から、色々なしんどいことを乗り越えた経験を経て「何かあっても私なら大丈夫」というのが蓄積されると共に、心配性が顔をださなくなった気がする。
そして、予想していなかった辛い経験を味わった時、心の底から「予想(心配)してなくてよかった」と思った。起きる時は起きてしまう。起きる前から起きたことを想像してその時間もしんどく、起きてしまってからもしんどくて…そんなんだったら私は気が狂ってたと思った。笑
『心配性か楽観的か』結論
楽観性(人やコト、自分への信頼)をベースにもちながら、心配性の要素であるリスク回避というスパイスを入れ、最終結論は「成るようになる!」と楽観性に着地するぐらいがちょうどいい。深刻になりすぎないバランスを自分で調整する。(私の場合)
そんな日。
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