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俺の屍を越えてゆけなんて、嫌だけど。

先日、33歳になりました。
たくさんのお祝いメッセージ、ありがとうございます!

純さんのダミ声バースデーソング、みほの照明を消そうと必死なiPhone操作
マミちゃんに胃袋ズキュン連れて行ってもらってのハピネスディナー
ママからの美味しいケーキ
理愛からのトリートメント&カットのプレゼント

誕生日というのは、ほんと、うれしいもんだな。と、思います。
感謝ばかり。

1/2の早朝、祖母が脳幹出血で倒れました。
自分が33歳になる前に、生きていることが当たり前では無いことを感じました。

病院に到着したときに先生から
「重篤な状態です。いつなにが起きてもおかしくない。これから先、良くなることはありません。家に帰れることは二度とありません。」
と言われたとき、
「呼べる人はすべて呼んでください。」
と言われたとき、
「呼吸機をつけるかつけないか、延命するかしないかの判断を、酷ですが早めにしてもらわなくてはみなさんが辛い思いをするかもしれません。」
と言われたとき、
わたしは、こんなことが自分の人生で現実に起きるなんて。と、思いました。

いま、祖母は、病院で奇跡的な現状維持を保っています。
ICUからも出られました。
ですが、これから先、もともと持っていた認知症がすすみ、話すことは二度とできず、ごはんを口から食べられることはありません。

前日に、ひ孫と、親戚の子と、ハイハイゲームをしていました。
わたしは見ていませんでしたが、めちゃくちゃ速かったそうです。
親戚の子に「うちの子になってよ。」と言って、無言で返されていました。
カニと、すき焼きと、いくらを美味しいと食べていました。

お風呂に入ったのを忘れて入ろうとしたので、
「おばあちゃんお風呂には入ったんだよ。」と何度かやりとりをして
「ええー!こんなことも忘れるなんて、死んじまうよ!」
という言葉に、「ははは」と返したのが、わたしが祖母と交わせた最後の言語です。

今でも、玄関の前でおばあちゃんがほうきで掃除をしているような
帰ってきたら「まいちゃんが帰ってきておばあちゃん安心だ」と言われるような
「たまごを買い忘れたら貸して」と二階に上がってくるような
「まいちゃん、おかいり」と書かれた裏紙のメモが置いてあるような
そんな気持ちになってしまいます。

毎朝怒鳴り合いをしていたおじいちゃんが、病室でおばあちゃんの手をずっと握り締めながら
ずっと愛の言葉を投げかけていました。

「暑いからニットを脱がせてくれ」と言われて脱がせたら、
右手を脱ぐときは左手で、左手を脱ぐときは右手でずっと、おばあちゃんの手を離しませんでした。
映画のワンシーンより美しい瞬間って、現実で死が関わる瞬間にいつもみているな。
と、ぼんやり思いながら泣いてしまいました。

おばあちゃんの意識があるときに話しかけると、「うん、うん」と頷きます。
ひ孫の動画を見せると、すごく反応します。
なんて言ってるかわかりませんが、「早く帰りたい」と言ってるのかな、とわかる唸り声をあげたりします。
おじいちゃんが「帰るね。」というと、いやだと首を振ります。
昨日は、「まいちゃんが33歳になったんだよ。」とママが言ったら、その日いちばんの反応を見せてくれたそうです。

小学生の頃、英語を習って帰ってくると
「今日はなにを習ったの?ハウアーユー?」ときいてきました。
それがいつしか嫌になって、「もういいよ!」と言ってしまいました。
なんで、毎回、答えてあげなかったんだろう。
そんなことを、ふとした瞬間何度も考えてしまいます。

誕生日までは、向き合えているものの、どこか考えるよりも、必死に生きようとしていて
家に帰って泣くことなどはありませんでした。
優先度が高くないデータ作成を朝方までやったりしました。
こんな日がいつか来るものなんだ、自分の人生をしっかり生きようと。
気になることをリストアップして、親戚と共有して、お葬式のことなんかも少し確認して。

誕生日のディナーで、マミちゃんとおばあちゃんのことを話していたら、マミちゃんがめちゃくちゃ泣き始めて笑
最初は「ごめんー泣かせてー!」と笑いながら写メを撮っていましたが
それをみていたらわたしも涙が出てきて、
「病室以外の瞬間も、ずっと悲しかった」とわかりました。

純さんとみほが、知っていながら、わたしがその話をするのが苦手だと共有していたことを尊重して、その場でその場に必要なことをしながら、楽しく過ごしてくれたのも嬉しかった。

りなが、「今のまいきーとわたしに必要なものは」と考えて、美容院に連れて行ってくれたのも、ひさしぶりに自分を大事にできたような、一個人として戻れたような気がしてうれしかった。

:Dのみんなが、報告したときにそれぞれ返事をくれてうれしかった。

家族が元気でいることがうれしい。

毎日おばあちゃんの洋服を畳むおじいちゃんが心配。

おばあちゃんの認知症が進み、いつか私たちのこともわからなくなり、喋れないから私たちにはおばあちゃんの言葉がわからず、不安を取り除けなかったらどうしよう。

毎日、たくさんの気持ちが行き来しますが、「俺の屍を越えてゆけ」とは、よくできた言葉だな。と、繰り返し思います。

どうして死を感じないと、忘れてしまうことが多いんだろう。なんでこんなに愚かなんだろう。
誰か大事な人が死ぬときに、気づくことが多すぎる。

人間に「忘れる」機能がないと、生きていけないからだとは毎回思うけど
「どうして」とも、毎回思ってしまう。

屍を越えてゆく日が、今回も、これから先もやってくる。
越えたくなんかない、自分が越えて気づくことがあるなんて、
そこに誰かの死があるなんて嫌だ。
けど、どうしても何かに、大事なことにたくさん気付かされてしまう。

わたしが屍になる日もやってくる。

今回こそは忘れずにいたいことだらけだ。

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