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多芸は無芸?役立つ時は来るのか①

小さなころから、「マイコちゃんって、何でもできるね」とよく言われてきました。4月生まれだったし、背も高かったし、4つ上の兄がいたことも影響していたと思います。でも、そう言われるのがあまり嬉しくなくなったのは、何一つ、一芸に秀でていないことに気づき始めてからです。

ずっと、何か一つでも、これだけはすごい得意!というものが欲しかったし、できたらそれを仕事にしたい、と思っていました。

小さなころから、高校までやったこと

4歳からスイミング、6歳からピアノ、8歳から習字、9歳からバレエ。昭和時代の「ザ・習い事」っていうものは一応やりました。水泳は選手コースまで行き、バレエはトウシューズも経験しました。短距離が得意だったので、小学校では陸上部でした。

教育熱心だった両親のもとに育ったためか、小学校4年でせっかく頑張っていた習い事はほとんどやめて、いつの間にか塾通いが始まっていました。文武両道、的な方針だったのか?自分のチョイスではなかったのは間違いありません。

中学、高校は一貫教育の進学校だったので、高校3年生までひたすら勉強をしていたイメージです。

仕事の役に立ったことはあるのか

勉強は、嫌いではなかったはずなのに、塾通いから始まった「テストのための勉強」になった途端、嫌いになってしまいました。

4年生から、週末も四谷大塚(小学生の全国模試のようなもの)のテストを受けに行っていたし、そのころ友達と遊んだ記憶は、ほぼありません。8年間、嫌々やった勉強は身につくはずもなく、あまり役に立たなかったと思います。

逆に今でもテスト勉強が終わっていなくてどうしよう!という悪夢にうなされることがあるので、役立つどころか、害だったのかも。

中学、高校は水泳部に入りたかったけど、その学校はプールさえなかったので、兄の影響でバスケ部に入部。中高時代の唯一の救いがバスケでした。

女子校だったため、ボーイッシュな子が同性の後輩にキャーキャー言われたりする、不思議な世界。

NBAが一番熱い時代だったので、マイケル・ジョーダンのファンだったし、シカゴブルズの試合をビデオ録画したものを、よく兄と見ていました。

バスケ漫画のスラムダンクを読んだら、感情移入してしまい、通学中の電車の中で読むと思わず声を出して笑ったり、涙が出てしまったほど。肺に穴が空いて入院していた時は、手術後ベットの上から動けなかったので、ひたすらスラムダンクを読んでいました。(肺に穴が空いた話のコラムはこちら

バスケの試合を見てルールがわかる、という意味では今でも少し役に立っていますが、部活は学校の方針で、大学受験の勉強に集中するために高校2年で終了。

正直言って、どの習い事も部活も、仕事の役に立ったか?と言われたらそんな役に立たなかったです。唯一、ピアノは、後にミュージシャンになった時に、作曲したりシンセサイザーやギターを学ぶ際に少し役立ちました。

色んな種類の事をやってきたけど、嫌いな勉強に時間を割きすぎたこと、本当に好きなことを続けてこなかったことが、仕事の役に立たなかった理由かな、と思います。


夢を追いかけるためにしたこと

どんなに勉強ばかりする環境にいようとも、自分が好きなことというのは忘れるものではありません。むしろ、やってはダメ、と言われたら、やりたい気持ちがもっと育つのかもしれない。

学校でも、小さいころから好きだった音楽、美術、体育だけはいい成績でした。

高校2年ごろから「歌手になりたい」と思っていたのですが、もちろん親に却下されました。親からしたら、進学校に入ったんだから、大学進学するのが当たり前だったのでしょう。

では。「芸術大学にいきたい」という願いも、お金がかかるから、という理由で却下。ちょうど、バブル崩壊の頃でしたからね…。今なら事情がよくわかりますが、高校生の私に理解できるわけがありません。

じゃあ、一体何をすればいいんだ!(怒)となるわけで。反抗期が2年ほど続くようになります。

そうだ、アメリカに留学して、行った後、自分の好きな事をしよう!

以前の記事に、なぜアメリカに留学したか、の一つ目を書きましたが、これが、もう一つの理由です。(なぜアメリカに留学したか、のコラムはこちら

とにかく、親元から離れ、自分の道を自分の力で切り開いていこう、というのが、留学したもう一つの理由でした。


そこそこの英語

アメリカ留学のおかげで、そこそこ英語を話せるようになりました。「そこそこ」な理由は、金銭的理由で、大学を2年半で中退せざるを得なかったためです。英語は話せても、国際的なビジネスで通用するレベルまでは習得できませんした。

日本に帰国したあとは、ニューヨークのカフェでのバイトが役立ち、東京・表参道にある「Las Chicas(ラスチカス)」というレストランで働きました。

まるで海外のカフェをそのまま持ってきたような、フレンドリーでオープンな雰囲気のレストランで、英語で接客することも多かったですし、従業員も外国人のほうが多かったので、英語は帰国後も使い続けることができました。

ラスチカスついてはまた別の回で書きますが、日本にいながら、ありのままの私を受け入れてもらえた初めての場所であり、この場所を通して出会った友達は、私の生涯の友達となります。

その後、ラスチカスでMTVにスカウトされ、テレビの仕事をすることに。英語で海外アーティストにインタビューしたりもしていたので、そこそこの英語でも使い続けることで上達し、役に立ちました。

やっと、この頃から、ずっとやりたかった事に少しずつ手が届くようになりますが、果たして、夢は叶うのでしょうか。


多芸は無芸?役立つ時は来るのか②へ続く








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