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文章からそこはかとなく漂う色気について

昔から「色気」という言葉が好きだった。
端的にカタカナで言うと、「セクシー」
なんてことになるんだろうけど
「セクシー」という言葉はあんまり、ビビっとこない。

色気という日本語が美しいとずっと思っていた。
他者を惹きつける性的魅力を色の気という熟語で表しているのが美しいとずっと思っていた。

そもそも色に関する言葉は結構好きだ。
「色気」「色香」「色っぽい」「鮮やか」「色彩」
たぶん、たちこめているイメージ、どこか妖しく神秘的なイメージ、多面的なイメージがなんか好きなんだと思う。

そして、色、そのものにも興味を持っていた。
なぜなんだろうとずっと考えていた。

絵具が好きだったし、色と色を混ぜると別の色に変化するのも楽しかった。
そういうこともあって、学生時代は美術部だった。
絵は残念ながら、そんなにうまくなかったんだけど、配色のセンスは先生に褒められたことはあった。
将来にもしかしたら役立てるかも? と思って色の勉強も齧ったこともあった。(今のところ、大して活用していないが)
一番興味をひかれたのは、色の持つイメージや意味合いについてだった。

絵を描くとか、ファッションを考えるときは、美しいとか、なんかいいと思うそういう視覚的な部分で捉えているのだが、
色を感じるのは、
なにも視覚的部分だけではないのだと気がついた。

一見関係のなさそうに思えるのだが、文章を書くとき、物語を書くときでも、色彩をイメージし、その意味合いについて考えているということに気が付いた。
言葉や文章が紙や画面の上で立ち上がっていても、言葉や文章そのものの実体として色彩があるわけではない。たいていはモノクロだろう。
しかし、そのモノクロの文字、文章、物語の描写の中に描かれているイメージは色彩豊かだ。

言葉、文章、物語の中には、その書き手の色気というものが詰まっていてほしいと思う。ここでの色気は性的魅力という狭い意味合いだけでなく、もっと広い意味合いでの魅力と受け取ってほしい。
視覚情報から直接的に働きかけるのではなく、読者の脳内に入りこみ、イメージがスパークし、内部から働きかけているということそのものに、しびれるような色っぽさを感じないだろうか? 私は感じる。
まわりくどいのが知的な作業だ。知的と色気は相性がよい。

絵を描く、色を塗るという視覚的表現で直接訴えるより、そのイメージをいかに情緒的に間接的伝えるかということに美意識を感じるようになり、
私は言葉、文章、物語で表現するようになったのだと最近思う。

一物書きとして嬉しかったことがある。
友人に私の小説を読んでもらったときの感想が
奥ゆかしく、でも艶っぽい作品だったと言われたことだった。

女である以上、美しい、可愛らしいと思われたいと思う。
それは直接的な外見的要素の美醜だけに囚われない。
もちろん、外見的要素を綺麗だとか可愛いらしいと言われれば嬉しいし、そんな演出をするのが女心ではあるが、一番の勝負所はそこじゃないよなぁと最近思う。
せっかく文章を書けるのだから、物語れるのだから、そこを活かしてなんぼだと思う。一物書きだからこそ、自分が書く文章や物語に美意識を持っていたいなあと思うのである。
一物書きとしての美意識があるからこそ、文章で表現する場でなくとも、その美意識を軸に美しくありたいと思う。
文章を書くのが好き、物語を考えてしまう、それは特性であり武器である。その武器に自信を持っていたい。

余談である。
まいこんのおとはこのnote上での名前だが、
小説家になりたいと応募している公募小説上での名前は別の漢字四文字の姓名を名乗っている。(本名ではない)
一小説家として命を吹き込むための名前をどうしようかと考えたとき、私は色を纏いたいと思った。
そして色を纏った名前で物を書いている。

……今書きながら気付いた。
まいこんのおとという名前でも少し色を纏ってはいるなと。(名付けたときは意識していなかった)

まあなんにせよ
一書き手としての色気をこれからも意識していきたいと思う。

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