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私にはないものから私を見る

この間、ストレングスファインダーの調和性の会に参加した。
この資質、私は25位と下位。
とっても似ているように感じるところは多いのだけれど、私にはないことはよくわかる。

調和性の資質は、
人との衝突を避ける。
その場が穏やかであることを大切にして、みんなのバランスがとれた状態を好む。
みんなの合意点を見つけて前に進める。
相手と考え方が違っていても敢えて言わない。
感情エネルギーの無駄遣いが嫌い。
みんなが納得するやり方を見つける、相手の気持ちを察する。


雰囲気は一見似ているようでも大きく違う。
私が気になるのは、みんなが気持ちよいかどうか。
考え方が違うことは当たり前で、それは出し合いたい。
必ずしも衝突をネガティブに思っていない。
衝突するから得られるものもあると思う。
もちろんその場はある程度キツイ思いもあるかもしれないけど、自分の考えは出来ればきちんと伝えたいし、聞きたい。
でもそれで誰かが気にしたり、傷ついたりしてしまったら、その後すごく自分も痛むし、できるだけフォローには回る。

このように挙げてみると、いつも言っている共感力によって自分を置きざりにしている自分とは反対のことに感じる。
何が違うんだろう。

相手に良かれと思って合わせる私もいる。
そういう時はその時点で我慢と思っていない。
「そっちが良いならそれでいいよ。合わせるよ。」という私。
思うに相手の感情と自分の感情を天秤にかけている。
相手に合わせられるくらいの私の許容範囲内で、相手が気分が良くなるならば、その方が私には良いように感じる。
そして気分が良い相手と一緒にいる方が私が楽だ。

視点が感情にあるか、物事にあるかの違い?
例えば仕事場では案外私は意見をきちんと言う方だと思う。
何か目標が明確にある中でのことだったら、
そういう時は思考が、感情よりも対象が物事の方に向かっているから、素直に意見を言う。
いや、その目標に対する誰かの思いを深く理解していたら、また違う可能性はある。意見を言ったとしても譲るかもしれない。
そう、相手の思いに共感してしまうと話は変わるかもしれない。

私がこの調和性について考えた時、自分は意見を引っ込めるというのが苦手な気がした。引っ込めることは、もちろんあるのだけれど、本当は引っ込めたくない。我の強さを感じるのだ。

調和性の人にとっては、どうもその自分の我というのはあまり必要なくて、それよりもどう合意点を見つけて物事を進めるのかが大切らしい。
なんだかとても素敵に感じた。大人だなーと。

私も他人に合わせることはよくするのだけど、それはその感情やムードを重視してのことで、私の中の我はきちんと居座っている。
相手がみんなが気持ちよいのは良いのだけれど、自分はなんか違う。。でもそこでそれを壊すのは違うのはわかっている。
だからモヤモヤすることがある。

あと相手に我慢されるのも嫌だ。
だからきちんと言ってほしい。
相手が我慢したままいるのだったら、自分が譲ってもいいように思ってしまう。
我慢されるのが嫌なのは、たぶんその我慢を自分が知っているからだ。

私はそのせいか、意見が見えない人や日和見的に周囲によって言う事がコロコロ変わる人が苦手だと思っていた。
私にとっては我があるのが前提で、だから相手の意思が見えないと不安になるのだ。
私は相手が心地よいのかそうでないかを常に察知したいのだと思う。

でも調和性の場合、私が我慢と思うようなことをどうも我慢と思わないようだ(合ってるかな?)
自分がどうのではなくて、合意されることの方が心地よいのだと思われる。

人が集まれば、意見はそれぞれで何らかの着地点が必要になるものだ。
そういった時に、落とし所を見つけ上手く纏める力を発揮することに長けているのは素晴らしい。
私だったら、あっちの気持ち、こっちの気持ちと色々気になって、着地したとしても何らか引きずることもありそうだ。

自分の完全な下位資質の会に参加したのは初めてだったのだけれども、下位だけに、無いものは無いのがわかり、違いがかえって理解しやすいと思った。
自分も相手も輪郭がクッキリと浮かび上がってくる。

違いがわかることで、相手の理解が進む。
そして自分の理解がそれ以上に深まるように思う。
今回は自分の我というものがとっても引っかかってきた。
でも何が良い悪いではないという。
どう扱うかだ。

まだまだ自己理解の旅は続きそうだ。

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