見出し画像

見えない枠

枠を外したい。枠から出たい。
そういう思いが私の奥底にある。
その時々によって色んな表現をしているのかもしれない。
昨日今日は「枠」という言葉になる。


また遥か昔のドイツにいた頃の話。
滞在期間の後半を迎え、まだまだもっとここに残りたいよーという思いに駆られていた時に、仲良くしてくれていた友人Annaに私は言った。
「私がドイツに残れるようにAnnaも強く願ってね。」
状況は、夫の仕事の都合以外の何物でもなく、上手くしてそのままドイツ勤務を延長する事態にならないかと、それだけを願っていた。

その時Annaはドイツではこういう時
両手の親指を握りしめて拳を作るジェスチャーして、「ich drueck dir die Daumen」と言うのだと教えてくれた。
直訳すると(あなたのために親指を握る)だが、それは成功を祈る、応援している意味になるのだそうだ。

ただその後で
「私がもしMaiの立場で自分がドイツに残りたいのだったら、その為にできることを探す。そのために何かするけどな。願うだけというのが私にはちょっとわからないかも。。」
そんなようなことを言われた。
その時にガーンときた。
それまでの私は強く願っていれば、物事は叶うと信じていた。
そうして気がつけば叶った事がいっぱいあると思っていた。

私がしていることは願う事だけ。
自分ができることは他に何もしていない。


あの時のAnnaの言葉はずーと私の中に残っている。
今思うと私の「枠」を感じたひとつの大きな出来事だ。
結局あれから私は何か変わっただろうか?
それがある意味、枠の中にいる私にダメ出しし続けているとも言える。

でも自分へのダメ出しだと、どうも足が止まってしまう。
見る方向が違う。

枠の外の世界を感じたい。
だからきっと私は海外に惹かれる。
その感覚に自分をさらして、自分が思い込んでいる世界はちっぽけなもので、外の世界はもっと楽しいよ。しかも簡単なことだよ、と身体で感じたいのだと思う。

一方で身の回りにも小さな枠はいっぱいある。
考えたら、私がこうしてnoteを書き始めたことは、自分の枠の外に出たことになっているはずだ。
以前は自分の文章を公開するなんて無理ムリムリ!と考えられなかった。

自分が枠の外に出られたというこういう小さな経験を積んでいこう。
やったことがないこと、やろうと思いながらやってないこと、何でもないちょっとしたことだっていいはずだ。
小さなことを繰り返して、気づいたら枠の外。それがいい。

しばらく「枠」に意識を向けてみようと思う今日この頃なのだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?