これからの休みは「主権奪還」になる ~#オン読 7月のまとめ~

テーマの本をオンラインで読みあって考察を重ねあうオンライン読書会「オン読」、8月になってしまいましたが、まとめてみたいと思います。テーマはこちらの本でした。

Twitterで「#オン読」「#自己紹介」でツイート参加いただいたみなさん、ありがとうございました… といいたいところでしたが、学生さんが試験期間だったという間の悪さで今回は参加、ゼロでした… その分、僕が考えたことをしっかり書いてみたいと思います。

これは「休み」の本では、実はない

今回のお題をあえて「休み」にしたのは、一見ミスリードに見えたのかもしれない。なぜならこの本、「土日があれば海外だとあの国まで行けて、こんなプランだったらできます!」みたいな本ではなくて、いかにして「休みを勝ち取るか」の本なわけで、そこは「休み」ではなく「休み方」とタイトルがなっている通りなんです。でも、ほんとの本質はこのサブタイトルである「人生の中心が仕事から自分に変わる」というところだなあと感じる。仕事から自分。軸違うやんけって一瞬思ったんですが、ここを正確に把握するべくちょっと今の日本社会の言っている「働き方改革」をアンチテーゼに整理してみます。

「時間」以前か、「意思」の問題か。

「残業青天井」はまずいから、「夜10時には退勤しましょう」という、時間の配分の是正が一番わかりやすい変化として世の中に広がっているので、働き方改革=早く帰れ改革と思われちゃってる節があって、そこにはさんざん、いろんな方面から「本質そこじゃねー」という突っ込みはすでに入っていると思います。まあでも実際、長時間労働が心身をむしばむのは事実なわけで、とりま早く帰るだけでも残業させられまくるよりは改善でしょ、という声もあったりで、結局、うまくいっているのか退化しているのかどうなのと。これはおそらく軸が二つあって、その混同が議論のかみ合わなさになってると思うんです。軸は「時間の使い方」「意思の使い方」です。「残業させられまくる」働き方から「10時に帰らされる働き方」へ。これは「時間の使い方」は変わったけど実は「意思の使い方」は”させられている”という点において、変わってないんですよね。

こんな感じ。縦が時間軸、横が意思軸。意思は受け身、パッシブなままです。顔色真っ青だった頃よりは多少血色よくなったかもしれないけど、やっぱり「させられている」ことに違いはない。この本は決して、「ここで生まれた時間をどう使いましょーか!?」という本ではないということです。

じゃあほんとに目指したい「働き方改革」って何かと言ったら、横軸も反対象限にシフトするということなんだと思います。

時間の使い方も、意思の使い方も変える。「残業させられまくる」から、「仕事も休日も、”したくてやっている”割合を増やす」こと。これこそ副題の「人生の中心が仕事から自分に変わる」の意味したかったことだろうなあと。まあこの理屈でいうなら、落合陽一さんみたいに「自分の意思で死ぬほど仕事する」というのはアリになります。あれは極端なのでおからだ心配になりますが、例えば仕事でも没頭して我を忘れて深夜まで考えてしまったなんてときは、疲れてはいるけど、つらくはなかったりする。時間制限ありきの働き方改革が本質的じゃないとされているのはおそらく、本人の意思の使い方を改革するという議論が抜け落ちがちだからなんだと思います。働きたくて自由意志で長く働いているならそれはそれでよいのではと、個人的には思いますが、まあここは、個人の意思ぶって他者が働かせてしまうなんていう未熟さが取り除けないのが今の日本の未成熟度だと思うので、あんまり積極的に追及すべき象限じゃないとは思うけどさ。とにかく、意思の話なので法律ができることの範疇を超えているのかもしれないので政府や国をこの論点で攻めるのはちょっと難しいかもですが、今後、少なくとも会社に求められるのは「従業員にどれだけ、意思の主導権を持たせられるマネジメントができるか」なんだと思います。

では、意思の自由を、どうするのか?

法律や企業が変わったとして、さて、手に入った意思の自由を個人はどうしようか。これが結構、難しいんじゃないかなと実は思う。企業や慣習がいろいろ決まり事を押し付けてくるのは確かにイヤだなあと思う判明、ある意味、「縛ってくれるとラク」な側面もあったんじゃないかと思うんです。残業しても、そのあと飲んだくれても、「しょーがねーんだよなああ仕事がつらいからさあ」と、自分の時間の使い方に言い訳が立つ。自由って、それはそれで「やりたいことがない人」にとっては厳しかったりします。ジョーク的な仮説として日本人が残業が多い理由に一つに、「家にいても居心地が悪いからだらだら会社に居ついてしまう」なんて説があるくらいですから。そうやって消去法的に意思決定する方が、自分で考えなくても時間の使い方が埋まっていくのでラクではあります。ここを、変えた方が楽しいよ!?っていうのが、この本の2つ目の主張かと。自分の時間を自分が楽しめるように使える人になろうよと。そしてそれって案外、訓練とか習慣とか少しずつ積み重ねていかないといきなりはできないよと。「休み方」にも上手い下手という概念がちゃんと存在するということを提示しているように思います。しかも自分という存在は、どんなに意思の力を使っても、怠けるし忘れるし諦めがちであるということも見越して、「航空チケットとっちまえ!」みたいな、強制力の働かせ方も書いてある。「いい休みを取る」というのは、当たり前にみんなできることじゃないんだと肩の力を抜いていいんだよと思わせれくれるほど、”しょーもない小技”までちゃんと書いてあるのは良書だと思います。

自分の”やりたい”を自己定義する力

社会がどんどん便利になって、果てはAIや自動化テクノロジーが発達したら、人間、暇になるといわれてます。人類の次の敵は「退屈」だと。その時に、「自分がすべきこと・やりたいことを自己定義する力」のあるなしで、その人が幸せに他者と関わりながら生き方を構築できるかどうかがものすごく決まるんだろうなあ。AIなんて出てこなくても今ですら、これまでの人生の典型的なロールモデルが全く当てはまらなくなり、親世代の「常識」がどんどん通用しなくなっていっているのは見ての通りなわけです。”正解っぽかった何か”が、溶けている最中。そんな中で、「意思の使い方」がパッシブのままだと、とんでもないミスリードに巻き込まれたり、あるいは”次の正解っぽいなにか”が出るまで待ってたらじいさんばあさんになってたりする可能性が高い。単に「今度の長期休暇で、海外に絶対にいくんだあああ!」という射程だけでなく、これからの「意思の使い方」とそれがなぜ未来の社会において重要になるのかまでぐるぐる考えると、これからの休みは、自分の人生を決める意思の使い方を自分主導に取り戻す「主権奪還」の試金石になるんだろうなと思って、この本を読みましたとさ。

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あー楽しかった!というわけで、こんな感じでオン読これからもやっていきます。8月のテーマはすぐ出します。この考察記事を見てさらにコメントしてくれる方も絶賛募集中です。「この本も、より考えるうえでよいですよ!」というオススメもお待ちしております!ではでは!

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