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マシーナリーとも子EX 〜雪原の暗殺者篇〜

 とても静かな雪原だった。
 上司に言われやってきたその土地はウラジオストクから電車を乗り継ぎ3時間、さらにそこからバスを利用し1時間、バスを降りて30分ほど歩いてようやく辿り着いた。
 駅で買ってきたウォートカは寒さをしのぐためにどんどんその容量を減らし、つい今しがた最後の一滴がセイフーノフの舌を濡らした。その頼りなさに舌打ちしたそのとき、ようやく目的地の小屋が見えてきた。

(まるで『レプカ』に出てくるお祖父さんの家だな)

 血生臭い要件とは無縁と思われるその牧歌的な佇まいの小屋に、セイフーノフはふと子供の頃散々聞かされた童話を思い出した。小屋までたどり着き、ドアノッカーに手をかける。が、その上部に書かれたメモを見つけ手を止めた。

「ノックはしないでください」

 そうかそうか、そういう話だったな。改めてセイフーノフは手のひらをペッタリとドアの表面にあてた。氷点下の気温でキンキンに冷えたドアに思わず悲鳴が上がりそうになったが耐えた。するとキィと小さな音が鳴り、ドアはひとりでに開いた。

(不気味なものだな)

 うんざりしながら中に入る。二つほどドアを通り過ぎ、突き当たりにあたるリビングに入るとそこでは黒髪の女性が暖炉の前でくつろぎ、編み物をしていた。一見穏やかな光景に思える……。だが異様なのは、編まれている紐も、編棒も、宙に浮いていることだった。

「私は……」
(あ、あぁー。わかってます同志セイフーノフ。ここでは声を立てないでください)

 セイフーノフの脳に直接、女の声が響き渡る!  不気味! 知識としては知っていても初めて味わう感覚に彼は冷や汗をかいた。眼前で編み棒とッ途中まで編まれたセーターがサイドテーブルに置かれる。すると今度はそこに置かれたティーカップがふわふわと宙に浮き、女性の口のなかへと流し込まれた。ただしほんの少し。その口は上下の唇がホチキスで荒々しく留められており、満足に開かないようだった。過去に行われた拷問だろうか?

(いや……)

 セイフーノフはさらなる冷や汗をかきながら自らで否定した。

(聞くところによるとあの口は自分の手でバチバチと留めたそうだ……。まったくイカれた女だ)

 セイフーノフは一旦落ち着こうと懐から葉巻を取り出した。

「同志トルー……灰皿をいただけるかな」

 女性はゆっくりと頭を回し、ようやくセイフーノフの顔を見るとにっこりと口を歪ませた。ただし、その瞳は真っ赤なサングラスで覆われ伺うことはできなかった。耳にはクレー射撃をする際に詰め込む強力な耳栓が差し込まれている。

(ここは禁煙ですよ。同志セイフーノフ)

***

 外交上どうしても進退窮まるときというのがある。こちらの条件に対してどうしても首を縦に振らない資本主義者、我々に不利な条約を締結しようとしている第三国、国連のバカ、サメなどだ。
 そんなものに対していちいち宣戦を布告していくわけにはいかない。核ミサイルで脅しをかけるのも時代遅れだ。なによりそれらは金がかかりすぎる。そんなときに便利なのが暗殺者だ。これは我々の国だけに限らない。先進国ならどんな国でもある程度の暗殺者を抱えている。彼らは極秘裏に、格安で――戦争をすることに比べれば――ターゲットを抹殺し、我々の国益を生み出してくれる。
 そんななかでも数年前にデビューを果たしたこのトルーという暗殺者はとくべつ優秀だ。いや、クレムリンではもはや彼女を暗殺者と呼ぶものすら少ない。なぜなら彼女は……相手を殺さずして無力化することができるのだ。

(なにか飲みますか? 紅茶ならすぐに淹れられますが)

 トルーの思念がセイフーノフの脳に染み込んでくる。気さくそうな態度を取っているが、彼はまだその感覚に慣れることができなかった。
 声を出すなと言っていたな。じゃあ考えればいいのか? セイフーノフは試してみた。(紅茶はいらない……。仕事の話をしよう)、と。
 するとトルーはうんうんと頷いてまた思考を飛ばしてきた。

(仕事の内容なら……すでにわかっていますよ。あなたが入ってきたときにはもう、思考を読ませてもらいましたから)

 セイフーノフはギョッとしながら(不気味な女だ!)と思った。トルーは深くため息をつく。

(……伝わっていますよ? 読むつもりがなくてもとっさに飛び出る思考というのは漏れ出てくるものでしてね)
「あっ! す……すまない同志トルー! 私が慣れていないのがいけないんだ……」

 怒りを買った! まさか殺される!? 無意識にそう思ってしまったセイフーノフの思考を読み、トルーはため息をついた。

(いいですよ同志セイフーノフ。この場はとくに怒ったりしませんよ。慣れっこですからね。まあ不愉快ではありますが……仕事をくれる同志に危害を加えるなんてどうしてできましょう? 暗殺者というのは無用な殺生はしないものなんですよ。プロのボクサーがみだりに民間人をなぐりつけないのと同じようにね)
「い、いや本当にすまな……」

 ガシャン!!
 セイフーノフがさらに謝罪の言葉を紡ごうとしたとき、彼の足元に電灯が落下し、砕けた。あと2歩、右に立っていたら彼の頭に直撃したであろう!

(ただしどんなときでも不測の事故というのは起こるものでしてね)
(……!!)

 今度は冷や汗も出なかった。ここまで歩いてきて充分に下がった体温がまた下がる感覚をセイフーノフは覚えた。
 わざとやったんだ……! セイフーノフは確信していた。トルーが暗殺者と呼ばれない理由……それは彼女が地上最強と呼ばれるレベルのサイキッカーだからだった。読唇術、サイコキネシス、サイオニックブラスト、ブレインウォッシュ……。数々の能力を使いこなす彼女をスヴェルフチラヴェークと呼ぶ者もあった。彼女はその能力を駆使し、政府に邪魔な存在を銃で撃ったりナイフで刺したりする以外の方法で消していった。あるときはサイオニックブラストで骨が残らないほどに焼却した。あるときはサイコキネシスを用いて公衆の面前で対象を全裸にし、社会的地位を抹殺した。あるときはブレインウォッシュで記憶を消し、別人として生活させた……。
 どんな暗殺にも足はつく。だが人のそれを超えた能力を持つ彼女は容易に不可能犯罪を可能としたのだ。彼女によって我が国が得た利益は非常に大きい。そんな人知を超えた存在に、自分はいま失礼を働いてしまった……! 彼女の気まぐれひとつで、自分は今夜自宅で風呂に入ることすらできないかもしれないのだ! セイフーノフは全身がガタガタと震えるのを抑えきれなかった。恐怖が全身を包み込む!

(そんなに怯えなくても大丈夫ですよセイフーノフ……。ほら、電灯が落ちたのはあくまで事故です。この小屋はかつて私の祖父が住んでいましてね。いろんなところにガタが来てるのを誤魔化し誤魔化し使ってるんですよ。それにほら……)

 粉々になった電灯はふわりと浮き……少しずつ治りながら元の位置へと戻っていった。

(さすがに割れたガラスをぴったり継ぎ目なくくっつけることはできませんけどね……。でもほら、また取り付け直せば灯りはつきますからね)

 そう伝えるとトルーはまたニコリと笑った。
 逆らえない!! この女には! セイフーノフは当初、たかが暗殺者に依頼をするだけだと高をくくっていた。だが今はそんな気持ちはこれっぽっちもなかった。とにかく無事にここを出たい。家に帰ってウォートカを飲みたい。彼の心は縮こまっていた。

(もう帰っても構いませんよ同志セイフーノフ。さっき伝えたとおりもう内容はわかっています)

 帰ろう、とセイフーノフは思ったが彼の心の片隅に2ミリだけ残っていた役人としての責任感がなんとか口を動かした。

「ふ、復唱してくれ同志トルー……。あなたが私の考えを本当に理解してくれたのかどうか、私は自分で確認するすべがないし確認しないままここから帰るわけにはいかない……。失礼と思わんでくれ。これが私が自分の仕事に対して果たさなければならない責任なのだ」
(おや)

 トルーは意外そうに首を傾けた。

(失礼ながら……あなたがそんなに責任感の強い方だとは思いませんでしたよ。だいたいみなさんそんなことを言わずにさっさと帰ってしまうんですけどね)

 セイフーノフは彼女に依頼を伝えに行ったきり帰ってこないエージェントが数名いるという噂を思い出していた。

(……アメリカもスヴェルフチラヴェークを抱えていることがわかった。ターゲットは日本在住のシャーマン。居場所はアオモリのストラークガラー。目的は対象の無力化、または暗殺……ですよね?)
「結構だ同志トルー!」

 セイフーノフは自分の仕事を果たした喜びに打たれ叫んだ。その瞬間、先程落ちた電灯が再び彼の足元に落下して砕け、彼は背筋に氷の杭を打たれるような感覚を覚えた。トルーは人差し指を口の前に当て、「シーッ……」と静かに息を鳴らした。

(私の前では静かにするように……教えられてますよね?)
(す、すまない同志トルー! 慣れてないんだ我々ふつうの人間は……! 非礼をお詫びする!)
(そうへりくだらなくて結構ですよ。あなたの大声は実に不快ですが、あなたが自分なりに仕事をやり遂げようとするその殊勝な態度はなかなか気に入りました……。取って食ったりしませんから安心してください。いまのはそうですね、学校の教師がチョークを投げたようなものですよ。笑ってください)
(はは、ははははは……)

 セイフーノフはいつのまにか立場が逆転していることに気づいていなかった。彼の頭のなかにはなんとか生きてここから出ることができそうだという安堵感しかなかった。

***

読んだ人は気が向いたら「100円くらいの価値はあったな」「この1000円で昼飯でも食いな」てきにおひねりをくれるとよろこびます