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東日本大震災と私

2011年3月11日14時46分

この日、日本に大きな衝撃を与える社会的出来事が発生した。誰一人として風化させてはいけない最も大きなニュースとして毎年、この時期になるとテレビでは特集番組を組んで放送していることが多い。その同時に私たち市民も他人事ではなく、自分にも起きてくるんだということで防災認識が向上するきっかけにもなった。

「東日本大震災」という呼称であるが、正式名称では「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と気象庁ではこう伝えられている。

 当日の私は、大学3年の春休みの真っ最中であった。当時のスケジュール手帳とSNS上に残されている投稿を振り返ってみた。一週間前は、愛知県で全コンの大イベントである会員の集いが行われ、役員改選で退任したばかりであったという。そのため、当日はその事務処理で引き継ぎ資料などまとめたりしていた。また東京アカデミー模試の3日前ということもあり試験勉強に費やしていただろう。

と過ごしていた自宅で大きな地震を経験した。当時、部屋の中では揺れを感じるほどであった。震度4である。(2018年に起こった胆振東部大地震とは小さめで、縦揺れだった気がするが体内で感じるほどは久し振りだった。)すぐ収まったもの、これが直後のニュースで大きく驚愕されてしまうことを見てしまった。これは記憶に残される。被災地の仲間を想うと、何にも助けられない切なしさを感じたのである。

この日から2日後、全コン役員として当然ながら被災地の会員の安否確認そして学生として出来ることの支援活動が始まった。私も広報としての業務が中心なので、被災地の情報収集に努め学生の生活を風化させないよう共有して応援するという活動を取り組んでいたことを覚えている。以下、被災地の写真を1枚だけ掲載する。

ある友人のご協力を得て、防災教育の教材として使っていたのでそのまま引用したがこの写真を見るだけでも、震災当時のことが強く伝わってくる程の大きな被害である。

東日本大震災を機に聴覚障害者の情報保障についても考えが変わるようになった点がいくつかある。

1,首相官邸の会見模様に手話通訳のワイプ画面が拡大され、2画面で見るように改善されることが多くなってきたこと。(結局、1年経過するとまた小さくなり2度と2画面で見るようなことはない。ワイプ画面が映る機会も減少した経緯がある。後にコロナ禍によって、再度見直しされてきたわけである。)

2、遠隔情報保障システムの導入が進み、遠隔手話通訳サービスの基盤となった。また聴覚障害者情報提供施設の設置が拡大し、生活を保障するための環境整備が進められるようになるなど、日本でようやく世界の取り組みに追いついた形となる。きこえる人(行政機関)の理解思考が転換するようになったきっかけである。

 と簡易にまとめてみた。でも残念なことに忘れてはならないのが、情報が届かなくて亡くなってしまったという人害による震災被災者の遺族がいること。また約2%の大半は情報伝達が不十分であることが原因で、助けられるはずの命が奪われたという結果ということが分かっている。聴覚障害者は一人で生活するのではなく、周りからの情報を得て生活する必要がある。しかしこの時は何にも得られなくて、不安と大きな恐怖を抱えながら過ごしていたと思うと自分は、何にも出来なくなるという無力感を肌感じていた。この気持ちを役員として支援活動をしているうちに被災地に住んでいる仲間の姿に尊敬を表すしかなかった。自分も見習わなくてはならないものなんだということの強い気持ちを教えてくれている。苦しみは乗り越え、今復興という新しい1日を取り戻している。

風化してはならない。忘れる頃にまた大きな地震が来る。

その時にきこえない人には、情報伝達がうまく出来るのだろうか。

この取り組みを今一度見直していく必要がある。

遠隔手話通訳サービス、電話リレーサービスという整備は、整えていたとしても電気が止まれば使えず、一時的に連絡手段がなくなる。

電力が復旧するのは最低でも2日間、長くて1か月以上もかかる例もある。住んでいる地域の情報を改めて事前に確認していくといい。そしてその間の電力確保も個人の努力次第である。(私は、ポータブル充電器を用意し車中泊として避難対策を整えていたのは、胆振東部大地震がきっかけである。少し早めに取り組むべきだったかもしれない。)

SNSでもデマなど情報の判断が混乱してしまう。きちんと正しい情報を得られるかどうかという事前の心構えを学ぶ必要がある。

 人的支援として、近所付き合いが少なければ手話サークルや活動仲間との連絡手段を確保なり、お互いの「共助」ということをしっかり確認しなければならない。防災ではなく、減災も考える必要がある。どのようにして被害を減らすのか。きこえない人だったらまずは、情報伝達手段をデジタルに頼るのではなくアナログの方法ももう一度手元に用意しておく、マニュアルを作成して万が一の備えをするということも大事である。

 私がお勧めするのは、電子筆談メモ(ブキーボード)を確保することである。防災リュックに入れるとか、持ち帰っておけるような位置に置く、いつでも使えるようにするということを心掛けているわけである。青年部活動の中でも一時的にグッズとして販売したところ、売れたわけである。

紙とペンがなくても筆談として使えること。

手話が出来ないきこえる人と会話が取れること。

この2点だけでも非常に役に立つわけである。また種類によるが、保存・読み込みが出来るという高めの電子機能の付いた商品も売っている。これらを避難所に置いてもらうこともあっていい。手話サークルの学習会でもこの備えを確認するだけでも減災の一つになるわけである。また後日に話すが、LEDランタンも胆振東部大地震の時に役に立ったという声もあったわけである。これからは、防災を考えたグッズ普及も必要である機会であった。

 以上、東日本大震災を振り返ってみた。もう10年経つが、今思うと当時の仲間とはあまり会うことがない。元気に過ごしているのだろうかと気になっている。また支援活動は終了したが、この経験は北海道でも大きな地震が来た時やまた南海トラフ、首都直下地震の恐怖もある。そこに備えていく私たちの間で何かの用意は考えなければならないことを改めてみなさんに知って欲しい。と願い、綴じてみた。