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オンライン授業の“必要なこと”を考える#5

タブレット活用における情報機器活用の割合はここ1年、急増している現状だ。政府のGIGAスクール構想によって、当初予定した計画より前倒しで学校ごとに一人一台のタブレット端末を活用させることの普及率を向上するという政策が急ピッチで進められている。以下、政府の挙げるGIGAスクール構想とは何か。(「GIGAスクール構想に想うこと」の投稿と合わせて読んで頂ければと思う。)

Society 5.0 時代に生きる子供たちにとって、PC 端末は鉛筆やノートと並ぶマストアイテムです。今や、仕事でも家庭でも、社会のあらゆる場所でICT の活用が日常のものとなっています。 社会を生き抜く力を育み、子供たちの可能性を広げる場所である学校が、時代に取り残され、 世界からも遅れたままではいられません。1人1台端末環境は、もはや令和の時代における学校の「スタンダード」であり、特別なことではありません。これまでの我が国の 150 年に及ぶ教育実践の蓄積の上に、最先端の ICT 教育を取り入れ、これまでの実践と ICT とのベストミックスを図っていくことにより、これからの学校教育は劇的に変わります。
この新たな教育の技術革新は、多様な子供たちを誰一人取り残すことのない公正に個別最適化された学びや創造性を育む学びにも寄与するものであり、特別な支援が必要な子供たちの可能性も大きく広げるものです。
また、1人1台端末の整備と併せて、統合型校務支援システムをはじめとした ICT の導入・ 運用を加速していくことで、授業準備や成績処理等の負担軽減にも資するものであり、学校における働き方改革にもつなげていきます。
忘れてはならないことは、ICT 環境の整備は手段であり目的ではないということです。子供たちが変化を前向きに受け止め、豊かな創造性を備え、持続可能な社会の創り手として、予測不可能な未来社会を自立的に生き、社会の形成に参画するための資質・能力を一層確実に育成していくことが必要です。その際、子供たちが ICT を適切・安全に使いこなすことができるようネ ットリテラシーなどの情報活用能力を育成していくことも重要です。
このため、文部科学省としては、1人1台端末環境の整備に加えて、来年度から始まる新学習指導要領を着実に実施していくとともに、現在行われている中央教育審議会における議論も踏まえ、教育課程や教員免許、教職員配置の一体的な制度の見直しや、研修等を通じた教員の ICT 活用指導力の向上、情報モラル教育をはじめとする情報教育の充実など、ハー ド・ソフトの両面からの教育改革に取り組みます。                  (令和元年12月19日文部科学大臣のメッセージより引用)

しかし私は、この政策に警鐘を示したいことが2点ある。とその前にある学校の学校だよりで記載している文章がある。

子どもたちを集めて、小学部、中学部それぞれでiPad の使用方法についてオリエンテーションを行い、実際に端末を操作してみました。子どもたちの様子を見ていますと、一度行った操作はすぐに慣れ、活用している様子がうかがえ、 その姿からは、学びの可能性の広がりを無限に感じます。これからは、端末の操作や機能などの基本的な使用方法を学ぶことはもちろんですが、情報を活用し「自ら考え判断し行動する」力を身に付けなければなりません。情報とうまく付き合っていくためには、最終的には、自分の頭で考え、行動できる力が必要で、これからの目まぐるしく変化する時代 を生きる子どもたちにとっての「生きる力」だと思います。

この文章は、都合いい内容として説得力があるように読みますが、これはきこえる人の感じる教育者としてのよくある視点で話していることである。これ(学校だより)を読む保護者には余計、学校側の姿勢を信頼してしまうという効果になってしまいがちで、私は全部が間違っていないと言えるが、一方で多少の違和感を持つのだ。それは本当に子どもたちがそう思ってあげているだろうか。という客観的な視点を持つことだ。子どもたちというのはまず、楽しさ・便利で活用することを知ることが一番ではない。この機器を使うことの理由が分からないこという疑問点に気付くことが先であると思う。

きこえる人は周りの会話やテレビからの音声情報を自然に耳に入ることで、タブレット端末機器を活用することが急に進められていることの背景があるという見えないことの情報をすぐにキャッチでき、実際に授業で先生から伝えられることこういうことになるんだな。。という一致した共感からタブレット機器を使うことに抵抗なく、周りの実態から受け入れるというメタ認知が備わっていることがよく見られる。でもきこえない人には果たしてどうだろうか。

学校だよりで書いている内容によるといきなり、先生方がタブレット機器に触れ合う機会を作る。そして教えてもらいながら初めて触れてみる。そして触れることで楽しさを知る。楽しさがわかったときにこれから使っていくんだという流れで子どもたちは受けてしまうとする。これが一つの誤りであると私は1つ目の警鐘である。きこえない子どもは、まずテレビを見ないことが多い。なぜか。理由は単純に音声情報が正しく入ってこないことがある。誰かが話すとか、テレビの内容を見る機会が少ない限り、「なぜ??」というメタ認知となるヒントが分かっていないままで、唐突過ぎるな受け身になった状態で先生方から説明を受けるということではないかと考える。

 実はこの流れを実践するのではなく、なぜこのようになったのかという社会の背景だったり、環境整備が必要で進めるようになったのかというメタ認知を理解させるような指導を導入するように意識することがより「深い学び」でありかつ自然的に「主体的な学び」を促していくことになることが正しいICT活用の指導法だと私は考える。これを保護者にきちんと伝える役割である「学校だより」できちんと書いて説明してあげることが、管理職ゆえに教育委員会としての現場を知る、現場のための向き合った姿勢であるべきと考えるが残念ながら、感じられなかったのはちょっと残念だということが本音である。これが子どもたちに向き合っているかどうかの姿勢であり、大人の都合上で建前のように仕事しているままでは、いつか子どもたちが卒業後に気付くことになりやがてあの時の教えなどの信頼は、消えてしまうだろう。今回は、「タブレット機器(ICT活用)」を挙げているが手話言語の必要性と似たようなものであると置き換えれば分かりやすい。

 この流れに沿ってはいけない。なんとしてもきちんと子どもたちが将来的に理解できるようにするためには何か。ということの長期的な視点でもつとするなら、コロナ禍において普及したタブレット機器の使い方はとても重要な役割である。「GIGAスクール構想」は単なるカッコつけた名前であって、中身は空っぽなのだ。このGIGAスクール構想の真意として私が思うのは、情報機器をさらに増やして教員の仕事を軽減するとか、子どもたちの学習効果が曖昧になるという色々な課題を一括りで解決に向けていくという都合良いことではないだろうか。実際に背景を子どもたちがもっと早く気付くことで、自分ができることは何か。自分がこうして欲しいことはどんなことなのかという「自ら調べ、考え、行動する力」が芽生えた効果が埋まれば、その子どもたちは間違いなく将来の日本において役に立つ責任感を持って活躍できるだろう。

 賛否両論はあるが、私の記述した内容が間違っているとは言えない。一つの考えであることをご了承願いたい。結論をいうと、きこえない子どもたちが「GIGAスクール構想」という波に正しく乗れるようにするためには、きこえる先生方がきこえる人(本人)の視点で見るのではなく、きこえない障がい自体を正しく向き合うことで、当事者からの視点に近づけた気持ちになって、考察して指導を逆から施すようにしなければならないということである。この思考、向き合うことは手話言語を使って指導するのと同様の専門性であり、非常に難しいことだと痛感してほしい。

 北海道の各聾学校で紹介されている学校だよりから読み取れる管理職の内容は、はっきり言って申し訳ないが信用できない私である。保護者方には騙されないことを警鐘しておきながら、聴覚障がいをもつ子どもの将来に待っているのは社会人の学び直しである。だから、子どもたちの卒業後には正しいことを伝えるべき。これが卒業生の立場でいうならば大変なところだけど、ろうコミュニティの新しい役割として青年部活動、ある某団体の仕事を通して様々な卒業生に耳を傾けている現状である。これが2つ目の警鐘として挙げる。今後も注視していきたい。