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障がい者スポーツを考える

皆さんが障がい者の立場になってみて下さい。そして健常者と同じように当たり前のようにスポーツを楽しんでください。とします。これが本当に平等するスポーツの表現とするならば、どちらがいいでしょうか。

「障がい者スポーツ」と「パラスポーツ」

 この2つの名称が最近、話題になった。今時であるが実は以前からのことである。根端は、東京オリンピックだけではなく、パラリンピックの方であるわけである。パラリンピックといえば、国民誰もか知っている認知度が高い障がい者の国際大会である。

 後日に触れていく【デフスタディの時間に迫る】マガジン内で「デフリンピックについて」を述べていく投稿をする予定である。そこで詳しく触れるつもりではあるが、デフリンピックもまた一つ国際大会として重要なことである。しかし、このことはまだ認知度が約11%とパラリンピックより低いわけである。

 パラリンピックの認知度が高いからこそ、ここで使われている呼称「パラ」をこの際、障がい者スポーツと使われている呼称から変更して、「パラスポーツ」にしようではないかという報道が出てきた。以下、引用する。


(Yahoo!ニュースより引用:毎日新聞3月16日付https://news.yahoo.co.jp/articles/ce435bea4ead4611f2244c0e21e976662e6d872d

この話題について、知人など十数名が声を高く高評価のようにSNS投稿をすることがあった。それについて私からも持論を展開していきたい。私の持論はあくまで一意見である。捉え方は、多様であるといい。

 正直言って、「パラスポーツ」というのは単なる極端に過ぎない話題だ。パラスポーツに変わる以前の深刻な問題を知らない人が多いことがある。

実は、デフリンピックが生まれる前は、聴覚障がい(耳のきこえない)もパラリンピックに参加しようとすることはあったという。しかし、対象外という外れてしまったという経緯があって今もなお、聴覚障がいに対してはごく一部の聴力制限をクリアした軽度難聴などが参加する範囲になっている。そしてデフリンピックより、パラリンピックに出場する聴覚障がいの選手もまだ厳しい環境の中で活躍するわけである。(※経緯については、後日に詳しく述べる予定の内容で記述するが、簡易に全日本ろうあ連盟HP「スポーツ委員会/デフリンピックの概要」より引用したのが以下の通り。)

国際パラリンピック委員会(International Paralympic Committee)が1989年に発足した当時は、国際ろう者スポーツ委員会も加盟していましたが、デフリンピックの独創性を追求するために、1995年に組織を離れました。そのために、パラリンピックにろう者が参加できない状況が続いています。なお、デフリンピックの独創性とは、コミュニケーション全てが国際手話によって行われ、競技はスタートの音や審判の声による合図を視覚的に工夫する以外、オリンピックと同じルールで運営される点にあります。また、パラリンピックがリハビリテーション重視の考えで始まったのに対し、デフリンピックはろう者仲間での記録重視の考えで始まっています。しかし、現在は両方とも障害の存在を認めた上で競技における「卓越性」を追求する考えに転換しています。                            

だから「デフリンピック」を作り、そして聴覚障がい(耳のきこえない)も国際レベルで競い合うというスポーツの祭典を行おうとしたことの苦しい歴史がある。デフリンピックという国際大会があったからこそ、今は障がい者スポーツが多様化に広がってきたんだということが分かる。そこから呼称としては、「障がい者スポーツ」ということが一般的に多く使用されていると私は考える。デフリンピックの誕生は、運営上の理由でパラリンピックとケンカ割れしていた背景であることがあったことをもっと知るべきなところであるがこれを知る者は、ごく少ないのである。

 残念なことにそのデフリンピックの関わりの歴史を知らないのか。「パラスポーツ」の呼称について、記事に記載している根拠の理由だけで、統一しようとする動きはちょっと残念で違和感をもつ私である。強く反対で批判だというところまでにはいかないが、残念な意見を述べておく。障害のある人もない人も楽しめることを強調したいという理由で、「パラスポーツ」にするならば、、、

デフリンピックの認知度を上げる努力はどうなるのですか?
認知度が低い中で、「パラスポーツ」の中にある聴覚障がいのスポーツをどこまで一般に浸透できるでしょうか。
元々「パラ」というのは、下半身まひを意味する英語の「パラプレジア」を語源としていたが、後に「もう一つの」を意味する「パラレル」と解釈されるように、解釈そのものを考えたとき、聴覚障がい者も制限なく一つの競技として、認知度が高いパラリンピックに取り入れておくことが一番の良い方法だか運営上で検討することはないでしょうか。

という3点が私の思う「パラスポーツ」に対する懸念な声である。その上で、サッカーに視点をおくと日本障がい者サッカー連盟(JIFF)がある。これは、色々な障がい者のサッカー協会が加盟した一つの組織として活動している取り組みがある。この取り組みは、大きく賛同する一歩である。サッカーの例のように、障がい者スポーツの呼称として大事にしているのは、それぞれの障がい者別に存在しているそのものの団体を一つにするのではなく、グループとして一緒にまとめていこうという概念で活動する姿勢が一番良いことだと思う。

 これが日本障がい者スポーツ協会では、「日本パラスポーツ協会」となれば、呼称が分かれるため、障がい者のスポーツを学ぶところとしてはややこしい捉えであるという印象を受ける。それぞれの障がい者スポーツにあるものがどのような変化を起こすのだろうか。ということになる。

例えば、聴覚障がい者サッカー協会をパラサッカー協会というのは変であると受け止める指摘にもあたる。このような誤解が起きるのは避けたいところだ。あえて慣れ親しんでいる「障がい者スポーツ」ということがまだ柔らかい表現であり、日本語としての適切な言葉ではないでしょうか。なんでもカタカナ文字(英語から作る)にするというのはおかしい。

またリハビリ・福祉の観点だけでなく競技性もより考慮されるのであれば、こういったややこしい捉えをもう少し意識した上で、慎重に検討するべきである。単純な理由で統一してこれから活動しようとするという選択はどうも変である。サッカーの例を一つの参考として、もう少し留意しながら、「障がい者スポーツ」という視点で考えていく機会は、今後も必要であろう。