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自分のやりたいことって

最近、思うことがあることをこの日正直に綴じておく。YouTube、Note投稿と自分の心境を日記のように綴じたり、手話で事実を伝えていくということを取り組んできた。でもそれが自分の本当のやりたいことでもないし生きがいでもないし、好きでもない真逆のタイプである。でもこれを取り組むことで、自分の罪悪感から避けたいという精神的苦痛は根本的に解決されていないのが現状である。

 解決というより、消えて本来の自分に戻れるかどうかは自分じゃない。相手が避けていることの事実があるにもかかわらず、税金をもらって勤務していながらも人間として向き合っていないという姿勢が自分の心の中で、あの罪悪感を引きずってしまい、気に障る恨みや妬みといった部分が湧き上がることが度々、睡眠が不安定になることもある。この状況はそりゃ、人間としての仕方ないことだとご察ししてくれるといい。税金をもらって勤務するということは、間違ったことはきちんと素直に吐き出して事実をしっかり考え、取り組むということが必要だと考える。私の考えは間違っているでしょうか。間違っているというなら、何したらいいのか?税金をもらう=家庭を養うためならば、人間としての責務は分かっているはずだよね?
立場を使ってズルくして安全配慮義務違反をしたことは、私が根本に強く痛感する受け止めなので、あの人の性格上は誰かもきつく言わない限り、多分分かってもらえないでしょうね。。

 社会ニュースで見る自殺者の精神的な気持ちをご察しするわけだし、それを生み出したことの反省をしっかり意識なければならないのに、日本の上に立つ人間という思想的な部分が私、どうも理解できないのだ。相談機関が作られたとしても結局は、組織的に立場上で何にも出来ない面は多くあるため、改善なんで期待していない。だから自殺者は止まらないということが、授業では得られない本当の怖い学びである。この学びはとても重く、視点がバラバラになるので詳しくは述べたくない。でもまさか私もその一人になってしまったことは事実である。人間で怖いものだ。

 特に加害者というのは、単純に自己防衛、自己の地位を上げることが正しい評価なんだという意味で、何かを犠牲するように目を背けるかのように傷つけるという行動を自覚していないことの人間ということだ。多分基準がないだけで、都合よい。または逆の立場になって受けたことないからこそ分からないし、気付かないというのは難しい。加害者のことを皆さんには気づいていないだろうというのが今の私が抱える重大な被害者であって、相手を殺してやりたいという気持ちもいつ起きてもおかしくないといっていいかもしれない精神的な面は常に抱えているのである。

 でも幸い、その行動が出来ずに今も苦しみながら過ごすというのは不思議な気分しかない。目の前に何かあれば、それをただ受け入れてやるしかない。何かをしなければ、自分の気持ちがおかしくなりそうだからとにかくやって過ごすしかないと思いつつ、生活維持のために適当に抱えていることは多い。

来月から3つに加え、新しく復帰することや、新たに追加された仕事もあり1週間のルーティンがほぼ固まりつつである。収入も4つの仕事でなんとか生活できそうな段階になるわけだ。しかし一方で、時間と精神的な気持ちは負担(犠牲)を増すことになることは間違いない。だからこそ休む日の過ごし方が不安なところでもある。

本当にやりたいと思うやりがいをやることで、自分らしく過ごすべきか。

無理して4つの仕事を抱えながら、みんなにわかってもらえるようにひたすら努力すればいいことなのか。

やることは見えないことである限り、復帰なんで表面上私の扱いが酷い以上は、判断が難しいことは変わらない。ただ無駄な働き方を背負うことが幸せの道なのか。世間の動きとはかなり矛盾している。

 結局、良い面を見ないで悪い面にイメージをもってしまう視線は相変わらず、厳しいというのがろうの世界でもあり、きこえる世界でも一部ある。ろうの世界は狭いからどうしよもないデマなどで、勘違いされることはもう慣れているから全く気にしないけど、一番深刻なのが特に学校関係者は、もう誰一人として全く冷遇されたわけだ。私の声を全く無視しているぐらいの反応なしで、もう恩師と思っている人さえ、1年経つ。管理職に上がる途端に印象悪いわ。本当に今の過ごし方に満足していないから、もはやあと2週間で向き合う姿勢なければ、本気で死んでいくか。または、自分の手で裁くという犯罪者の名を犠牲として自分なりの正義なる行動を覚悟するのを考えていたのもぶっちゃけて事実だ。

でもここ数日間でせっかくもらった機会を覚悟の上で、受け入れると同時に過去のことを切り離しておくべきという様々な声を頂いている仲間がいる。必要としているんだという信頼の言葉は、私のこれまでの活動者としての姿勢が評価されているだろうと感じている。そこに心が揺れている日々だった。非常に3月は嫌な時期である。

 私が思う「友達」という呼び方は、先日の投稿(「友達ではなく知り合い」で記述しているのでまだ読んでいない方はそちらを見てほしい。)

まだ一人もいないというが、まだ人間不信なところはある。そのため、あえて仲間の一人として今後は地味ながら接するだろう。ということで、言葉遣いも時には荒くなってしまうかもしれない。それが自分で作る言葉だけど、人生上の重い病気だろう。向き合っていくしかない。

その重い病気を生み出したのは、前職の背景であって、行政・学校に共犯ということをなんとしてもしっかり事実を伝えることが私の正義である。あくまで誹謗中傷でもないし、脅かし行為でもない。事実を書き留めることは、ドキュメンタリーであって、事実を言語化するということ。これがこのnote投稿活動であって、YouTube活動は手話で伝えるための場所である。

 だからYouTube内で活動するユーチューバーとは違うタイプになるから、登録者が伸びないこともそれは焦ることない。少しでも一人でも多くの人がチャンネル登録するということが自分への客観的評価であって、理解してくれるんだと思っている。ハメを外した動画を作ることも一つの方法であるが、ここはあえてしっかり自分の学びや経験の人生観を言語化することから始めていくことが良いかもしれないと思っているわけだ。

 最後にあと数日で今年度も終わり、新年度が始まるだろう。人事もそろそろ出てくる。ちょっと耳に挟んだか、その情報が確実に公になるまでは心の中で進展を願っている状態だ。それでも進展がなければ、残念ながら新年度からは、より事実をはっきりとオープン的に厳しく配信していく覚悟も大事と悩んでいるわけである。しばらくの間は、マガジン『私が述べる真剣な教育の話』の投稿を続けていくことをご了承していただければと思う。