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過去は変えられない

今、お別れや新しい門出の季節である。また人事異動だけではなく、役員改選もある。私はこの3月が正直嫌なのである。特にここ数年は、逃げたいというより精神的苦痛が酷くなるのだ。

 フラッシュバックのように過去を振り返ると、やはり許せない事実に解決は出来ずに今もやまた厳しいところに納得いっていなく不愉快なままである。過去は変えられないという重いレッテルを背負って、生きるしかないという現実である。私自身が起こしたくないだけに精神的に抑えられなかったのは未熟さであり、怖いものは誰もかみんな同じことだと考える。

みんな生まれながらにして悪いことをするわけじゃない。何らかの理由があって、人間の中にある憎悪な感情が生まれてしまう。精神的支柱があるかないかで一人で抑えられるかどうかになる。酒の力、たばこの力で発散することも一つであるがやはり人間関係は複雑で多少の影響はある。

今だから言い訳になるかもしれないが、事実な話を伝える機会である。今までは自分一人で何かを背負っていくばかり、抱えている気持ちを振り向くこと出来なかったと気付いたわけである。心に余裕がある暇はなかった。目の前のやるべきことばかり、集中していて思考や教養を深めるばかり過ごしていた。だから、周りに何かを求めていくというのは避けていた。

 だからその結果、周りから良い印象はないように見受けているのは仕方ないかもしれない。過去は変えられないもの。見えないところの噂話で勝手なイメージを捉えるという厳しい視線もある。特に聞こえない世界というのは、狭いわけなので簡単に切り替えるなんで難しい現状だ。

聞こえる世界はかなり広いので、違う方法に切り替えていくのは当たり前かもしれない。でも聞こえない世界というのは必ず、どこかで耳に挟んでしまった時、私に対して接し方が変わるという例もしょっちゅうある。これがろうコミュニティのあるある話である。全てがそうではないけど、理解してくれるというのは難しい。

 一緒に活動を頑張りながら、やってきた仲間たちはプライベートと仕事上の話は別々だからに気にすることないと、理解してくれる方はいる。それはそれで嬉しい気持ちで、申し訳ない感じが以前の私とは違うので重く感じるのだ。
また聞こえる人に対しては、また理解が難しいことも、あって消極的に姿勢を欲張りしていることもある。

「過ちは誰にでもある」という言葉は、色々な理由があるから分かる。納得できる答えというのは求める必要がない。でも今の私は、濡れ衣で酷いことを受けた事実があるのに表面な出来事の結果的に悪いイメージを見受けてしまったというわけである。

文章では上手く説明することが難しいが、いつかはYouTubeチャンネルでもきちんと伝えていくべきだと考えている。批判するなり、誹謗中傷だと言われたらもう人間不信そのままなんだと。ただ間違いはもう踏み続けたくない。事実を公に示すことは、とても大事である正義な行動を自分らしく模索してみんなに理解して頂ければ良いだけである。

 わいせつなどの酷い人間より、●●●●に精神的に壊れて過ちをした人間というのは背景が違うわけである。教師の夢ややりたいことの生き甲斐を事実ではない情報に判断されていくような組織的対応がもはや人生を失ってしまう酷い鬱であり、配慮してくれなかった学校側及び教育行政には、遺憾な気持ちに変わりない。でも現場復帰するための心構えなど、精進していきたい。いつかお互いに向き合って話し合っていける日を私は真実を受け入れつつ、重い覚悟の上で待っている。

事実を隠して人間として向き合わないなら、仕事していることを信用できるわけないんだという私の声は、間違っているでしょうか?今回は、その気持ちを綴じておくし、自分との闘いはこれからも続けていくのである。

第一歩としてある覚悟を伝えてしまったばかりの投稿だか、今もその気持ちに波がある。。
やっちゃった感覚も正解なのかも分からぬ。