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事実を言語化する行動

今の私は、正直いって社会から落ちこぼれた酷い身分であり、職業の自由を奪われるほどなのか。相手側の不都合な姿勢で人生を壊された現状にある事実がある。今もなお、相手に求めていても冷視(無視)や全く反省なしにしていることは、表は良い姿勢で働いているという人間性としての裏切り(税金をもらって平気な表情)で問題なく向き合っているようなプライドをしている人がいると思うと、非常に悔しいのと許せないという恨みと妬みが混同している気持ちが抱えてしまうのだ。

だから私は、そんな人間になりたくない。

そしてその人間と一緒に仕事しているんだと分かった瞬間、人間不信になりどうも人のことを信用できない。教職員としての在り方に強い疑問を抱えてしまったのだ。●●●●を否定し、事実を向き合わずに働き方改革やコロナ対策などの最先端な改善策などの取り組みが進められていることは間違っていると感じる私である。

 もしそのように今の状況のように取り組むならば、なぜもっと早くしっかりと現場の環境を改善するような取り組みを意識してこなかっただろうか。という疑問もある。●●●●の背景は、その環境にあって現場を見ていないことの事実が起きた。でもその評価は、誰もしないということの風潮が身に染めている教育行政の姿勢を非常に怒りいっぱいな私であり、名誉棄損に近いかなりの精神的苦痛を抱えているのだ。

そのため、事実を明らかにするために自殺することも考えた。

自殺=教育行政の責任及び●●●●についてを世間に知るきっかけ(社会問題として各地でも起きている過去の例もある)
犯罪=自分を犯罪者と呼ぶ代わりに相手の非が原因で起こしたことが裁判の結果は犯罪として悪くなってしまうのは確実だか、それよりも加害者が世間に悪いイメージを抱えることになり、その環境を作り出した教育行政の責任を国が注意していくことになる結果になるのは間違いない。

人間っていうのは、最初から悪意などがあって行動するのではなく、環境そのものの流れに原因があって精神的に壊れてしまうことはあるのだ。

 どちらもその結論は決まっている。どちらも良いことではないが、正義の裁きとしては正解である。悪いことは悪いことで仕返しして自覚させることが必要じゃないかという精神的な悪魔が心を揺らづいていることも事実である。

でもこんなことをしてまでどうしても世間に自覚させ、理解して欲しいという気持ちは周りから見ると意見が分かれるかもしれない。私にとっては、これが間違っているとは思わない。なぜなら、

間違っているままのデタラメな現実が進んでいること。
そして事実を否定し、税金をもらうことは公務員としての資格が違和感でおかしい。私を殺した現実が事実である。
間違いを自覚しない人間が子どもたちを教えるという公務員としての仕事を全うすることは、人間としての接し方を強く変えなきゃいけない。だからこそ、重く罰を与える必要はあるのだ。

といったところで、自殺寸前まで追い詰めることはこの2年の間に何度も起きていたのをぶっちゃけ告白する。警察沙汰になることもあった。そのたびに警察に事情をしっかり説明した上で、何度か乗り越えている。でも警察では、出来ないということの壁がありいまだに精神的苦痛は消えないのだ。永久に相手の姿勢次第で私の病気は日を追う度に深刻なのである。

 これが行政としての責任に闇があるということをみなさんに知って頂ければと思う。誤った人間と真面目に努力してきたのに不都合な現実に苦しめられて何にも出来ないという人間の生活の違いはどう報われば、幸せになるでしょうか?

怒りを行動ではなく、妬みや恨みとして抱えつつしっかりと言語化して事実を少しずつ伝えていくことを選ぶことにした。その場所は色々とある社会的に方法を移していくつもりである。
最悪な事態は避けることにしたが、解決したとは言えずギリギリの間際である

 人事異動で人は変わっていても立場上、事実は変わらない。責任を追及する姿勢であるため誹謗中傷だろうか関係ない。残念ながら事実なんで、恩師だろうか知人だろうか。立場上の責任という観点において厳しいと覚悟する。

職場復帰してやりたいことが本当に実現出来る日は1年目以来、あと何年かかるだろうか。いや別の道から関わることも一つの選択肢じゃないかと思うが、私1人では出来ない。相手側の向き合う姿勢や聞く姿勢なしに進展ないのでもはや厳しそうだ。(3月31日投稿の「自殺に向き合う過去」に続く)