「死にたい」ときに
【概要】「死にたい」と言いつつ死にたいわけではない時には、「死にたい」という言葉に縋ってしまうほどに自分自身が傷ついていることを理解してみよう、という話です。
「死にたい」と口では言っているが、べつに、飛び降りて終了!とか首絞めて終了!とか、そういうことがしたいわけではない、という時がある。「死にたいのに死にたくない」というのは一見矛盾してるけど、でも死にたいって思っちゃう。
だから「死ぬ気もないくせに死にたいとか言うな!そんなに死にたいなら死んでしまえ!」と言われる。それはそう。でも、そういう強い言葉では何も解決しない。
それより、なぜ自分が「死にたい」と思っているのかを考えたほうがいい。
1.「死にたい」という言葉は攻撃的である
「死にたい」という言葉は容易に口に出しやすく、子どもでも簡単に使えてしまう言葉である。しかし同時に、「死にたい」という言葉は攻撃的である。とても強い言葉である。いくらでも自分を傷つけることができる。
「死にたい」けど死にたくない時、自分は死にたいのではなく、心や体があまりにも深く傷つき、追い詰められていて、自分の気持ちをうまく言語化できず、「死にたい」という強い言葉に変換しているのだ、ということにしている。
つまり、この突然変異的に生まれた「死にたい」という言葉にはそもそも意味も根拠も無い。だから誰もどうやっても反論できない。
でも「死にたい」と思っている本人は心を休めようとして、自分を正当化するために「死にたい」という気持ちに無理やり理由をつける。「私はこういう理由で死にたいのだ」としてしまう。
しかし、「死にたい」という言葉に根拠が無いので、この行動は「考えている」とは言えない。考えている「ように見える」だけの行為である。これでは何も解決しない。
蚊に刺されてかゆい時に、爪でかいている間はかゆくなくなるのと似ている。かゆくはなくなるが、治せているわけではなく、むしろ症状は悪化している。
「自分でゆっくり考えてみて」と親しい人にアドバイスされても、これではらちが明かない。で、いつまでも根拠がないまま「死にたい」とだけ言い続けているからそのうち親しい人にも敬遠される。で、また自責……。
「死にたい」という気持ちを解決したいとき、自分も周りの人も、どうしても「なぜ私は死にたいのか?」だとか、「死ぬのはダメだ、命は大切だ」だとか、「死にたい」という言葉に対して真正面から立ち向かってしまいがちだ。それは「死にたい」という言葉があまりにもショックで、攻撃的な言葉であるからだ。
親しい人からのアドバイスがしっくり来ないのは、親しい人が「根拠のない言葉に対してアドバイスしている」ためである。だから親しい人からの大切な言葉を「なんか違う」と突き放してしまう結果になる。
「死にたい」という気持ちには根拠が無いので、他人が「死にたい」という気持ちを理解・共感することは不可能である。
「死にたい」と思うと、自分が傷ついてしまうし、周りの人が離れてしまう。それは自分のせいではない。「死にたい」という言葉があまりに攻撃的なため、それに囚われている自分も攻撃的になってしまっているのだ。
「死にたい」という言葉は根拠を持たず、また攻撃的であるため、「死にたい」という気持ちに正面から向き合っては何も解決しない。
2.「死にたい」と思ってしまう自分をどうにかする
自分が「死にたい」「私は死んだほうがいい」という考えに至ったら、まず何よりも先に「私はいま思考力がダメになっている」と思うようにしている。
自分は「死にたい」と考えるほど心や体があまりにも深く傷つき、追い詰められている。そしてそんな状況下では、自分の思考・判断力はダメになっている。当てにできないのだ。
そして「死にたい」という気持ちをどうにかするのではなく、「死にたい」と考えてしまう自分自身をなんとかする、という方針で考える。
「死にたい」と考えているとき、自分は死にたいのではなく、心や体があまりにも深く傷つき、追い詰められている。加えて思考力がダメになっているため、「死にたい」という攻撃的な言葉に縋ってしまっている状態だ。
なので、なぜ自分が「死にたい」と思っているのかを考える。
「なぜ私は死にたいのか?」を考えるのではない。「『死にたい』だなんて強い言葉を使っちゃって、いったい私、どうしちゃったの?」を考えるのだ。
つまり、「死にたい」という言葉に縋ってしまうほどに自分自身が傷ついていることを自覚するのだ。
「私は死にたい、なぜ?」ではなく、「私は傷ついている、なぜ?」というところから考え始める。
そうして原因がいくつか挙げる。「こういう理由で自分は傷ついているのだ」と把握できる。「死にたい」という言葉に根拠は無いが、「自分が傷ついている」ことになら根拠がある。
このようにして、自分がなぜ傷ついているのかを整理するだけで、「死にたい」という言葉に縋ってしまう・追い詰められている気持ちを解消することぐらいならできる。原因を解決するのはその後の話である。
いま自分でこう書きゃ簡単に見えるが、「死にたい」と思っている間はマジでこのくらいのこともできない。それだけ思考力が落ちていて、自分でそのことに気付きづらい。
だから、「死にたい」と思ったらまず「私はいま思考力がダメになっている」と思うことから始める。それだけでも幾分かはラクになる。
3.人に相談することは有効である
「死にたい」と思う時、他人に相談するなら、「私は死にたいんだ」ではなく、「私は心と体が傷ついているんだ」と相談するほうがいい。他人は「なぜ死にたいのか」は理解・共感できなくても、「なぜ傷ついているのか」「傷つくほどに何があったのか」なら理解・共感ができるかもしれない。
ここで解決方法が見つからなくてもいい。というか解決しようとしなくてもいい。人に話すことで、自分がなぜ傷ついているのかを整理することができる(④の手助け)。また、自分の思考のガス抜き的なこともできて、独りよがりな考え方をしてまた追い詰められるような事態を避けることができる。
人に相談することは、たとえ原因の解決方法が出なくてもこれだけ価値がある。自分で考えが整理できていなくても、人に相談するのは有効である。カウンセリングが大体こういう役割である(たぶん)。
ツイートでもLINEでも飲みでも親でも友達でも先輩後輩でもフォロワーでもカウンセリングでも精神科でもなんでも使ってみればいい。
逆に、相談を受ける側になった場合、相談することのこういった役割を理解しておく必要がある。どうしても手早く解決方法を見つけたくなるが、それだと相談の目的が食い違う可能性がある。解決方法ではなく、その前段階の処理や、聞いてもらうことそのものが必要とされている時もある。
私は人から相談を受ける時、「それ解決方法見つけたほうがいいやつ?」と聞くようにしている。相談の目的を共有しておくと、相手にとって良い相談ができる(と思う)。
4.まとめ
前提として、「死にたい」という言葉は扱いやすく、かつ攻撃的である。「死にたい」という言葉を使うとそれに囚われて自分も攻撃的になってしまい、自分を傷つけて周りにも迷惑をかけてしまう。
「死にたい」と思うときの自分は、死にたいのではなく、「死にたい」という強い言葉に縋ってしまうほど心と体が深く傷ついており、また思考力がダメになっている。
つまり、「死にたい」という気持ちを解決するためには、「死にたい」という言葉とまともに立ち向かってはダメで、「死にたい」と考えてしまう自分自身をなんとかする方向で解決する。
「死にたい」という気持ちを解決する方法
①「死にたい」と思ったら、まず「私は思考力がダメになっている」と思うことにする。
②「『死にたい』だなんて強い言葉を使っちゃって、いったい私、どうしちゃったの?」と考える。
③自分自身が傷ついていることを自覚する。「なぜ私は傷ついているのか?」を考える。
④自分が傷ついている理由をいくつか挙げて整理する。「こういう理由で自分は傷ついているのだ」と把握する。
これで「死にたい」と思うほど追い詰められている気持ちを解消することができる。
また、④やその先の原因の解決にあたって、人に相談することは有効である。なんでもかんでも頼ったほうがいい。
お腹すいた。幸せだ。
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