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ないものねだり(存在の耐えられない軽さ/ミラン・クンデラ)

チェコ出身の作家ミラン・クンデラが1984年に発表した長編。
「プラハの春」を背景に、外科医のトマーシュと田舎町のウェイトレスである無垢なテレザ、自立した画家で美人のサビナを中心とした恋愛模様が繰り広げられる。
トマーシュはいわゆるワンナイトを繰り返す色事師で、テレザとサビナは彼と自分との関係性における「軽さ」に苦しむ。

人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか?(略)
彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。

紆余曲折を経てトマーシュは医者を辞め、テレザと田舎に移り住み幸せに暮らす。ラストはふたりがダンスフロアで踊りながら「本当の幸せってこういうことだよね〜」と言わんばかりの、素敵な会話を交わすシーンだ。
(しかしそのかなり前のページで、ふたりが悲劇に巻き込まれて死ぬということが見落としそうなほどあっさりと書かれているため、一応ハッピーエンドではない。)

主要な3人のほかにもこの物語にはあらゆる価値観をもつ人物が登場するが、残念ながら私はそのいずれにも、あまり共感ができなかった。
・トマーシュがやたらとモテる理由が分からない
・どう考えても軽い男であるトマーシュを自ら選んでおきながら、その軽さを嘆く女に同情できない
・時代背景について無知
等々、様々な理由が考えられるのだが、それ以前の大問題がおそらくこの物語のテーマ自体にある。少なくとも私の周りには、存在の重さに耐えられない人間の方が、多いのだ。

クンデラがいうように、重さのある人生はドラマチックだ。
平坦な日々を繰り返す人生において、自分だけに向けられた重みは圧倒的な価値をもつ。(連絡がマメで一見優しいメンヘラがモテてしまう理由は、ここにあると思う。)ただしその価値は一過性のものであって、心地よかったはずの重みは次第に重圧へと変わり、やがて自分が檻に囚われてしまったかのような感覚を覚える。そこから逃げ出したいと願うようになる。
重荷に耐えるか下敷きになるかという簡単な二択以前に、人間関係においては、重荷が重荷であると見抜くことがそもそも難しい。(それに比べ、吹けば飛んでいく軽いものを見分けることのなんと容易いことか。)

『20世紀恋愛小説の最高傑作』という帯のついたこの作品に対して「重くても軽くても苦しいのだから、ないものねだりでしょう?」と投げかけるのは些か乱暴なのかも知れない。しかし今の私にはこの感想が全てであった。
10年後くらいに、もう一度読んでみたいと思う。

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