残酷な街のやさしい人(東京百景/又吉直樹)
中学生の頃からお笑いオタクだった私は、売れていない頃のピースを知っている。
『火花』が書かれる遥か前、舞台の仕事もなく、バイトの面接すら受からず、風呂なしアパートで中古の文庫本に囲まれて這うように生きていた当時の又吉さんに、芥川賞作家として生きる未来は想像できていたのだろうか。
その頃の空気を纏った彼の文章にふれると、人生が不確か極まりないものであるということを感じずにはいられなかった。
このエッセイには、18歳で大阪から上京してきた又吉さんの、東京での日々が詰まっている。圧倒的な情景描写、ユーモアセンス溢れる言葉たちの中にドキリとさせられる思考が見え隠れしていて、電車の中で読みながら吹き出しそうになったり、涙がこぼれそうになったりした。
「阿佐ヶ谷の夜」は、2009年に阿佐ヶ谷ロフトで主宰した『太宰ナイト』というイベントの話。又吉さんは後日、イベントのゲストだった西加奈子さんから帯コメントの話をもらう。
「僕が帯を書いても宣伝にならないですし、申し訳ないので…」と西さんにお伝えした。西さんは知名度は関係ないということ、そして「近い将来、みんな又吉さんに帯書いて欲しいって言うて来るよ」と夢みたいなことを仰ってくださった。
『火花』が発表されて芥川賞を獲るのはこれから6年後、2015年のことだ。
「池尻大橋の小さな部屋」は、全く売れていなかった又吉さんを精神的にも経済的にも支えた、明るくやさしい彼女の話だ。これほど美しい後悔のラブレターを、私はほかに知らない。
「代田富士見橋の夕焼け」は、文庫化にあたり2020年に書き下ろされた、相方・綾部さんの話だ。東京百景に相方の話がほとんど出てこない理由がここで明らかになる。
「相方なんだから、もっと綾部さんの優しさを世間に伝えてください」と幼稚な文を寄越して来た人がいたが、そんなことはどうでもいい。優しさを与えてくれないと誰かを好きと思えないような、その程度の欲望で触れて来ないでいただきたい。優しいかどうかなんてただの状態に過ぎない。そんなものは、とっくに超越している。あらゆる要素を含み、得体の知れない生きものとして存在しているその人こそを隣で笑っていたい。
これほど深い愛情表現を、私はほかに知らない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?