死ぬよりつらいこと(奈落/古市憲寿)

自身のコンサートの途中で舞台の奈落へ落ち、植物状態になった20代の歌手・香織の物語。今まさに放送されているドラマ『35歳の少女』を彷彿とさせるが、香織の置かれている状況は、ドラマの柴咲コウより遥かに絶望的だ。

香織は事故に遭ってから1ヶ月で目を覚ますが、手足はおろか黒目さえも動かせず、声も出なくなっていた。意識はあるし目は見える、耳も聞こえる、肌が痒い、痛みがある、でもそれらを伝える術が一切ない。舞台の下や花道の床下の空間・通称「奈落」に落ちた香織は、地獄を表す「奈落」へも落ちてしまったのだ。
医者には植物状態と診断され、治療を諦めた人たちが入る病院へ送り込まれそうになるが、紆余曲折あって自宅療養となった香織。しかし本人の望まない形で未発表シングルやベストアルバムが発売され、その収入で母と姉はブランド物を買い漁る。実の父からは性的暴行を受け、好きだった人は別の女性と結ばれてしまう。それでも、死ぬことすら許されない。
こんなことなら目覚めない方がマシだったと誰もが思うであろう、悲壮感に満ちた物語だった。

歪んだ愛情をもった母親の手で、ダサいカーテンがかけられた古い部屋のなか、香織がひたすら天井の染みを数え続ける描写がある。その数とは別に、小説全体を通して小見出しの要所要所に1〜4桁の数字が登場する。
私はこの数字の意味が分からないまま読んでいたが、最後の「6552」を見てようやく理解した。これは、香織が奈落へ落ちてから数え続けた日数だ。

物語の最後、ようやく改装されて真っ白になった部屋の天井を見て、40代になった香織は数えることを止める。天井の染みを、そして恐らくは苦しみをあらわすだけの日数を。

まさかと思うようなフィクションだが、このようなケースは現実に起こり得るらしい。8年もの間、意識があったのにないと思われ続けていた外国の男性の記事を読んだことがある。介護に疲れた家族の暴言や嘆きを聞いてしまったその男性が言っていた。「死ぬよりつらかった」と。

私の知人が植物状態になってちょうど1年が過ぎた。
彼を取り巻く全ての人の心の平穏を、願うことしかできない。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?