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【vol.002】 生い立ち

両親の特徴と家庭での様子

1978年、私は前川家の長男として生まれました。
四人兄弟の二番目で、私には姉と弟、妹がいます。


父は厳しい人で、私は物心ついた頃からよく殴られていました。殴られている理由がよくわからないことも多々あったので、ある時その理由を問うと、

「うるさい!口ごたえするな!お前はワシの言うことを聞け!カラスでさえワシが白やと言うたら白なんや!」

と言われまた殴られる、そんな日常でした。


そんな父親自身は六人兄弟の末っ子で、祖父から厳しい育てられ方をされていたようです。その祖父は父親が中学生の頃に亡くなっていために、私は会ったことがありませんが、父親が私によく言っていた「カラスが白い」件は、祖父が父親に対して使っていたセリフらしいです。それを引き継ぎ、私たちは厳しく育てられました。


これは半ば笑い話ですが、私が小学校の頃に「北斗の拳」が流行ったんですね。しかし我が家においてそれだけはテレビで観ることが禁止されました。父親が言うには、

「こんな暴力的なアニメは見てはいかん!PTAにもそう伝えてくる!」

と。

子どものことを殴るのはOK。その子どもが「北斗の拳」を観るのはNG。そんなよくわからない基準の根拠は彼の主観の中にしかなく、言語化してくれないから誰も理解できません。でもだからと言ってそれを問うと殴られるから従うしかない、そんな日常でした。


また、彼自身の呼称には「パパ」を強要しました。「お父さん」と言うと怒られる。まだ小学校低学年くらいならそれでもいいんですけど、高学年にもなって「パパ」と呼ばねばならないのは苦痛でした。だって、「パパ」ってキャラちゃうやん。。


そうして厳しく育てる一方で、父親は私に「お前は前川家の長男やからこの家を継ぐんや」という言葉をよくかけていました。だから私は四人いる兄弟姉妹の中でも選ばれし人間なのだ、特別な存在なんだ、という勘違いができていました。今思うと、その勘違いがないと相当自己肯定感が低かったと思います。



そんな父親と比べると、母親は優しかったですね。私と父親が衝突をすると、一歩引いたところからフォローを入れてくれる存在でした。諦めることなく、粘り強く生きている印象があります。

母親は彼女の両親が離婚したため、幼少期から母子家庭で育っています。さらに一緒に暮らす祖母(母の母)の身体が不自由になったこともあってか、若くして自立心と粘り強い心が育まれていったのかもしれません。

こうした両親と兄弟、それに母方の祖母との七人家族で育ってきた私は、それなりに活発な幼少期、青年期を過ごしていたと思います。


何かと選択権は父親にあり

小学校では児童会の副会長になったり、また少年野球では副キャプテンになったりと、NO.2が心地よかったのを覚えています。


中学校では軟式テニス部に入りました。本当は野球を続けたかったのですが、小学6年生で利き腕の右肘を痛め、ボールが投げられなくなったので仕方なく軟式テニス部に。

ところが、ラケットを振っても痛かったので(気づくのが遅い)、中学1年生から左手でテニスをするようになりました。当然ながら下手くそだったんですが、その分、下手なりにどうやったら勝てるのかを自分の頭で考える習慣はついたと思います。


中学2年生では新チームのキャプテンになり、チームは兵庫県で優勝するまでになりました。兵庫県選抜のキャプテンとして全国大会に出たり、西日本各地の大会に招待されたりで、田舎から出たことのなかった中学生が、この頃から外の世界を意識するようになりました。

そんな流れで高校は軟式テニスが全国トップレベルの四国の高校からお誘いを受け、もう嬉しくて嬉しくて。

これでようやく親元離れて生活ができると思っていたんですが、「高校に入ったら勉強するもんや」と父親に認めてもらえず、勉強する気もないのに強制的に地元の進学校を受験させられることになりました。


父親は早稲田大学の理工学部を卒業した後、技術系の仕事をしているエンジニアだったんですが、私に自分と同じような道を歩ませようとしていたようです。

「つぶしが利くから」という理由で理系に進むことを強制し、また高校卒業後の大学選びも「カネがないから国立大学しかあかん」と言いながらも、「早稲田やったら私学でもええぞ」という、理屈がまったく通っていない方向性を示しました。


こうして、親元離れて自分でレールを引こうとした高校進学は父親の押し付けによって潰され、結局は父親が引いたレールを強制的に進まされました。


しかし運命とは不思議なもので、そんな屈辱的な進路選択だから高校に入って腐ってしまうのかと思いきや、そこで出会ったクラスメイトと大恋愛し、彼女の希望していた大学に俺も行きたい!という一心で勉強のやる気スイッチが点灯。

おかげで希望通りの大学に進学でき、ようやく不自由な親元を離れ、一人暮らしをすることができました。

ただ、「これで彼女と楽しいキャンパスライフを過ごせる!」はずだったんですが、彼女は受験の都合で違う大学に進学し、遠距離恋愛となり、結局その恋愛はフラれて終わったのでした(笑)



大学時代の父親との印象的なエピソードは、茶髪にして帰省したときかな。当時、髪の毛を染めるなんて絶対に許さんと言われていたものの、そうは言っても多感な年頃ですから、ちゃんと茶髪にしてたんですね。

で、この髪で実家に帰ったら親父が怒るんだろうなぁ、と思いながらも実家に帰ると、意外にも父親は何も言わなかったんです。

もういい歳してるんやから、これくらいのことは許させるようになったんか、と思っていたところ、母親が現れ、

「あんた何そのブサイクな髪の色」

と私の髪の色を指摘するやいなや、

「なんや!お前髪の毛を染めとるんか!そんなもん許さん!」

と怒り出しました。

なんやねん、さっき俺の姿を見て気づきもせんかったやんけ。。


このように、自分の感性で良し悪しを判断しているというより、社会通念上ダメと言われていることをダメだと認識して、その価値観を押し付けてくることが多かったです。ただ感性は鈍いから、目の前の事象が社会通念上ダメなものかどうかの判断までは難しい、といったところでしょうか。

そんな感じで、自分の頭で考えているわけではないから、彼が言っている「ダメ」がなぜダメなのか、という理由までは説明できないんですね。だって、理由なんてないから。強いて言うなら、「ワシがあかん言うたから」でしょうか。

そういう圧政の子育てでした。



学生時代は一人暮らしをしていたこともあり、日常的な干渉を受けることもなく、伸び伸びと生活していました。今振り返っても相当楽しい日々でした。


その後、新卒で入社した株式会社ファンケルで7年ほど働き、その間にできた妻子を連れて、2009年、丹波市にUターンしてきました。

父から言われ続けてきた「お前は前川家の長男やからこの家を継ぐんや」という言葉通り、父が立ち上げた会社、ならびに前川家というものを継ぐためにUターンしてきました。


今振り返ると、こうしてUターンしてきた時点で、なんだかんだで従順だったんだろうな、と思います。

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自身が鬱になり、なんとか復活した経験から、自己肯定感と論理的思考力さえ高ければ鬱になりにくく、そして社会でも活躍できる人材になるという仮説を立てました。2018年に設立したNPO法人他力本願研究所では、その仮説をベースに人材育成に取り組んでいます。趣味:テニス、飲酒、考えること。

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私が鬱になって、そこからどのように復活してきたのを書き留めた記事です。 私は2011年に鬱になり、それなりに復活し、2014年に「鬱になり、もがいて、復活して、いろいろ考えた結果、鬱は創造的自己破壊だと思った」(http://urx.red/UXut)というブログを書きました。 そこでも鬱になってから復活するまでの過程を書きましたが、それから4年半、自分を内観し続けたことで、鬱から抜けていくための「心の地図」の輪郭がよりハッキリと見えてきました。 どこまで言語化できるかわかりませんが、当時の私と同じような悩みを今持っている人に、その先のゴールがうっすらとでも見えるような心の地図を、このnoteのマガジンに描いていきたいと思います。

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