カレンダーを眺めながら

 ある若手の先生とお話しする中で、時間の流れについての話題が出ました。私たちは時間の流れをどのように認識しているのか。時間という幅をもった概念についてどのように捉えているのか。

 まず「今日、明日、明後日」や「先週、今週、来週」といった言葉の難しさがあります。私たちが他者に対して「来週」と言うとき、それがどこからどこまでの範囲を指し示しているのかは非常に漠然として曖昧です。きっかり7日後の場合もあれば、次の月曜から始まる7日間の範囲で、ということもあるでしょう。稼業日を考えると、「次の月曜からの5日間」を「来週」と呼ぶ場合もありそうです。
 “文脈”で全部ぶった斬ってもいいわけですが、その文脈の取得にエラーが挟まってしまうとこれまた難しい話になります。結局、そういった細かな範囲や期間の指定が面倒だったり、「まあ大体わかるべ」でなあなあに省略したりして「来週」と言っているわけです。“暗黙の了解”、とでも言いましょうか。とかくそういった高度(なのかどうかはよくわかりませんが)なやりとりと言語の運用が実社会でされているわけです。

 ではこれが、小学生相手になるとどうなるか。
 私たちの仕事は、どうしてもこのぼんやり漠然曖昧な“暗黙の了解”を前提として“しまって”小学生たちと話す場面が出てきます。
 来週や来月、もしかしたら「明日」という言葉だって彼/彼女らの中では広い幅をもった言葉なのかもしれません。そもそも、その人がもっている言葉と、その人が見ている世界がどのようにつながっているのかは、他の誰にもわからないでしょう。そのような“世界の認識の仕方”はその当人しか知りえないのですから、想像するしかありません。そしてその想像を簡単に乗り越えてしまうのが“小学生という存在”なのです。

 そして、さらに不思議な“繰り返し”や“順序性”がここに立ち上がってきます。12月の次が1月だったり、1日に「8時」が2回登場したりします。朝→昼→夜の繰り返しが1日ですし、月火水木金土日→月火水木金土日です。この繰り返しや順序性について、私たちはどうやって掴んだのか、いろいろ思い返してみてもすごくぼんやりとしています。きっとそういう人は、世の中には一定割合で存在しているのかな、と思います。

 時間は、人間が作り出した尺度ではあるのですが、世界の在り方を規定するだけの大きな力を持った尺度です。
 しかし、その大きな力を有する尺度が、当人の中にどのように形作られていくのか、やっぱり曖昧で漠然とした実感しか私たちにはありません。時間を捉えている、という“思い込み”は、“常識”と呼ばれていますが、果たしてその常識がどこからやってきてどこへ行くのかは、まだやっぱりよくわからないのです。それは“世界の在り方”と密接に関わっているような気がするからです。

 世界の見え方、言葉と世界のつながり方、そして世界とはどういうことなのか、そのようなことをいろいろ考えていた1週間でした。