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「聞く」が自分を育てることになる理由

「聞く」には、逆方向の二つの意味がある。
一つは「耳を傾ける」の意味。誰かが語ることを受け身になって聞く。
もう一つは「尋ねる」の意味。「分からないことがあるから、あの人に聞いてみよう」と自分から近づいていくあり方。
つまり、受動的と能動的の異なるアプローチを「聞く」は持ちながら、どちらも最終的には相手の声が自分に入るというところに、聞くことの本質があるように思われる。

受動的な「耳を傾ける」を誠実に行おうと思えば、話をする相手の言葉だけでなく、その奥にあるものにまで意識を向けることになる。おのずと、言葉を頼りにしながら相手を立体的にイメージする力を養うことになる。
一方の能動的な「分からないことを誰かに尋ねる」は、なぜ自分はそれを知りたいのか、知った後はその知識や情報を何に活用するつもりなのか、といった自分自身の希望や目的に左右される。どうしても知りたいことが自分にあるから尋ねたり問いかけたりするのだ。おのずと、何を明らかにしたいのか? という自己対話を経なければならない。もしかしたら、ここが隠された意味(自分に対し耳を傾ける)での「聞く」なのかもしれない。

こうして考えると、受動的スタイルと能動的スタイルの両方の「聞く」によって、自分自身がステップアップしていくことになる。「聞く」が受動的能力を持った自分と能動的能力を持った自分をつくりあげていく、とも言える。
コミュニケーションは、受動的能力と能動的能力の両方を要する。これを高めるには、まず相手を深く理解しようという気持ちを持ちながら、自分はまっさらな状態で、他者の言葉を自分に沁み込ませていくことが重要になる。そのようにして、他者の言葉を聞き取れる幅で自分の言葉(意識的な考えよりもずっと奥深くに存在するほんとうの願い)も聞き取れるようになる。

福祉という世界には、他人に寄り添うことで結果的に自分を育てることになるという不思議な構造が含まれているような気がする。そして、他者から聞き同時に他者に問いかけることが福祉の原点にあるとすれば、コミュニケーションは福祉的要素を前提とするものだ。
今、社会にはコミュニケーション不足による問題やコミュニケーションそのものの問題が噴出している。「聞く」が不足しているのかもしれない。

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