怒りの前には悲しみがある

この前ね、家族と大喧嘩したんですよ。それはそれは激しい喧嘩で、まあなかなかのものでした。
互いに反省することしきりなんだけど、「どうしてあんなに怒ったんだろう?」って考えた時に、初めて気づきました。


怒りの前には悲しみがあることを。


怒りが大きい時は悲しみも深い。
私の場合、悲しいと思った直後にマグマ級の怒りが爆発するんですけど、「悲しみを感じた時に、それを伝えていればどうなったか?」ということも考えてみました。

まあ、ケンカ相手の性格を考えると、それでもこちらの心に刺さる言葉を投げかけられるでしょうが、もしかしたら、万が一の確率で少し空気は緩和したのかな?とかね、思ったりもします。

では、なぜ、私は悲しみを悲しみとして表現できないのか?ということなんだけど、それは、


負けた気になるから。


負けん気の強さだけでここまできました。この性格が嫌いではないけれど、でも、怒りによって関係のない息子にまで影響を及ぼすことが怖いんだよね。
あの時、母親として冷静になっていたら。
相手が冷静になる前に先に私がそうあったならば、状況はどうであったか?

私はどうしても負けたくないタイプです。
好戦的というか、勉強でも恋愛でも仕事でも負けたくない気持ちが強い。
それが良いように出る時は最高なんだけど、今回のように息子にまで影響してしまうことは、母親として自分自身で自分を否定するしかないよね。


私は母親になったらいけないタイプなんだな。


って思うことほど苦しいものはないからね。
だってやめられないから。
母親をやめたくてもやめられないから。
そして、私は瞬間的にはしんどい育児から解放されたくて母親をやめる選択肢を選んでも、きっとしばらくすると後悔すると思うんだよね。
だけど、今のように怒りをコントロールできない親は不要だろうとも思うわけです。

これが他人だったらどうだったか?ということも想像すると、他人相手ならここまで大事にはならなかっただろうと思います。
なぜなら、相手も私が他人ならもっと言葉を選んだだろうし、私も他人にはあそこまでの怒りを見せないと思う。
見せたとしても、違う形で表現したかなって感じたりする。

とにかく、息子を巻き込んでしまったことが本当に後悔していて、まだ小さいから覚えていないけれど、もう少し大きくなったらトラウマ級の出来事になり、私は彼から嫌われていたかもしれない………なんて思うわけです。


子どもに嫌われるなんて寂しすぎる。


これまで誰としたケンカであっても思い出すと、大体において怒りの手前に必ず悲しみがあったように思います。
それを表現するツールは、嘘泣きでも言葉でも表情でも肩が落ちた背中でも、まあなんでも良いと思うのだけど、今度からはそうしてみようかな、とか思う。

悲しみを見せることは弱さを見せることと=に思えてしまって、負けたくない気質の私はとてつもなくそれが嫌なんだけど、変わりたいなら変わるしかない。
変わりたいならこれまでと違う行動をするしかない。

今度からは怒りを感じても、悲しみを先に見せてみよう。
嘘泣きはできないので(涙を都合よく出せない)、表情や言葉で示すとかしてみよう。
それでも相手が追い詰めてきた時は、さてどうするか?
なにより、悲しみを見せても、直後に湧き上がる絶大なる怒りをどう処理するか?というのが難しいんだけどね。


難しくてもやるしかないのだが。


とにかく、大人のケンカに小さな子どもを巻き込んでしまいたくない。
息子の人生に影を落としたくない。
それなら母親である私が変わらないと。
子どもにとって母親って、やっぱり特別な存在だと思うんですよ。
もちろん父親がそうである場合もあるけれど、それは、正直、母親が母親として機能してないから、だと思うんだよね。

本当に賢い人は負けたフリができるんだけど、私はそうなりたい。
その直後に来る怒りのコントロールの仕方が今時点の私にはわからないので、ChatGPTにでも聞いてみようと思います(笑)。

とにかく、怒りの前には悲しみがある。
それをコントロールする術を人が身につけられたら、恐ろしい事件も、悲しい出来事も、戦争も、家庭不和もなくなるかもしれない。
もちろん、相手にも変わってもらわないといけないけどね。

これまでの私は「相手が夫じゃなければ」「親じゃなければ」「妹じゃなければ」と思っていたけど、そうではなく、これまでの人生を振り返ると、わりといろんな人とぶつかってきたので、やはりこれは私自身の問題だよな、とようやく気づきました。

ほんと、ごめん、息子よ。
本当に学ばない親でごめん。

毎日、座禅してみようかな。

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