濡れたままのレインコート

7月1日(水)。20時過ぎごろ退社。会社を出ると、雨がポツポツ降っていた。僕は軒先に隠れたまま右手を出して雨の強さを確かめながら、レインコートを着ようかどうか迷っていた。僕は自転車で通勤しているので、仕事用リュックサックの中にレインコートを常に入れている。結局、このくらいの雨ならばと考えて、そのまま自転車に乗って家に向かった。

しかし、雨足はだんだんと強くなる。思ったよりも服が濡れてきた。家に着くころにはびしょ濡れになっているに違いない。家まで15分くらいで着く距離だし、いつも帰ったらすぐシャワーを浴びているからとか考えながら、少しだけペダルを漕いだものの、ついに諦めてリュックサックの中からレインコートを取り出した。

急いで袖を通した瞬間、レインコートが濡れていることに気がついた。しかも、外側だけでなく内側もわりと湿っている。一瞬不思議に思ったけれど、1週間前に出勤する途中、激しいにわか雨に遭遇してレインコートを着ていたことを思い出した。なんのこともない、一度着たのにも関わらず乾かすことを忘れて、そのままリュックに入れっぱなしにしていただけだった。

内側が濡れているレインコートを着ると、ビニール製の安っぽい生地が、Tシャツからはみ出している腕にベタっと貼りつく。とても気持ちの悪い感覚だ。我慢して自転車を漕ぎ始めると、まるで1週間風呂に入っていないような汗臭い匂いがどこからか漂ってきた。もちろん、その匂いの元はレインコートからだった。濡れたまま放置していたので、むーんとするイヤな匂いを放っていた。自転車がスピードに乗ると、そのイヤな匂いが風に乗って鼻まで届く。レインコートが肌にじとっと貼りつく感覚。むーんとする汗臭い匂い。この2つをきっかけにして、僕は自転車に乗りながらあることを思い出していた。剣道をやっていたときの記憶だった。

僕は小学校から高校生まで剣道をやっていた。正確に言えば、ずっと続けていたわけではない。剣道を始めたのは小学2年生のとき。父親が剣道をやっていた影響を受けて、地元の道場に通い始めた。しかし、小学5年生の終わりごろ、キツい練習に嫌気がさした僕は、通っていた塾に専念するという理由で道場を辞めた。再び剣道を始めたのは、中学校に入学してから。全員なんらかの部活に入らないといけない学校だったので、僕はなじみがあった剣道部に入部することにしたのだ。中学校では3年間剣道を続けた。1度辞めたものの、わりと剣道が好きだったんだと思う。中学3年生のときは部長も務めた。

2007年、僕は高校生になった。入学した普通科の高校は、必ずしも部活に入らなくてもよかったのだけれど、なんだか帰宅部として過ごすのが嫌だった僕は、ここでもまた剣道部に入ることになる。でも、高校2年生の5月ごろに幽霊部員となり、そのまま部活からはフェードアウトしていった。なぜか。

高校1年生のときは部内全体が緩く、まるで“剣道サークル”といった雰囲気で、ときたま連取を行う程度だった。しかし、そんな牧歌的な日々は長く続かない。高校2年生に上がったとき、新たに赴任してきた剣道7段の体育教師が部活の顧問に就任したのだ。それまでのゆるやかな雰囲気は一変。僕が好きだった“剣道サークル”は、日々真面目に練習に励む“剣道部”になってしまったのだった。その体育教師が赴任してから2ヶ月ほどで、僕は道場を避けるようになった。結局のところ僕は、小学生5年生のときの僕と同じように、キツい練習が嫌だったのである。しかし、それと同じくらい嫌だったことがある。それが、汗で染みた道着がベタっと体に貼りつく感覚と、面や小手といった防具が発する汗臭さだった。

剣道の胴着は厚い生地で作られている。竹刀による打撃から身を守るためには、ある程度の厚みが必要なのだろう。当然そんなものを着て動けば、大量の汗をかく。そのうえ、剣道というスポーツは、面や小手、胴といった防具を装着しなくてはならない。だから、ものすごい量の汗をかく。量の汗をかくにもかかわらず、面と小手は恐ろしく通気性が悪い。気軽に洗うこともできない。できることは、風通しのいいところで干すことくらいだろう。だから、防具はとても臭う。納豆みたいな匂いがする。使ったあとしっかり干して、消臭スプレーなどでしっかり対策をしても、どうしても臭ってしまうものだ。装着したあとは、おまけみたいな感じで頭も手も臭くなる。石鹸で一生懸命洗ってもなかなか取れないほどだ。高校2年生の僕は、その防具の匂いと、汗で染みた道着が肌にベタっとまとわりつくのがとても嫌だった。ようやく思春期を迎えた僕にとって、それは剣道をやめる十分な後押しになった。

雨に濡れたまま放置したレインコートを身にまとって、湿ったビニールがベタっと肌に貼りつき、むーんとする匂いを感じたとき、だから僕は剣道のことを思い出した。中途半端に投げ出してしまったとはいえ、僕はある時期は楽しく剣道をやっていたのだから、やっぱり好きだったことは間違いない。今でもたまに、試合中の興奮、勝利したときの達成感を思い出すこともある。最近では機会があればまたやってもいいかなと思うことすらある。でも、雨に濡れたまま放置したレインコートを着たとき、汗まみれの道着が肌に貼りつく感覚、面や小手に染み付いたイヤな臭いを思い出したとき、やっぱり剣道はもうやらなくてもいいと思った。そんなことを考えながら、雨のなか自転車を漕いで家に向かった。

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