言葉
言葉というものは、自分の内側にある混沌としたものを人に見せられる形にして他者、あるいは自己に対して提示するものである。
幼い私はその行為そのものに恐れと恥じらいを感じていた。
自分の内側にある混沌としたものは、強大で、醜悪で、陰湿で誰にも提示できたものではないと感じたからだ。
そのときの私は「言葉=自分の内側の吐露」という単純な式を信じていた。
なぜそんな式を信じることになったのかは今となってはもう分からない。
だけど、「言葉≠真実」ということを知ったのはもっとずっと後のことだ。
それは、嘘つきというものに初めて会った時に遡る。
幼い私は、言葉というものは自分の内側にあるものを他者に伝える連絡方法だと信じていた。
伝達であり、SOSであった。
冗談や嘘というものが存在しているなんてその時は知らなかった。
幼い私は言葉を操るのが恐ろしかった。
自分はおかしなことを言いはしないか、ということばかりが気になり、なかなか言葉にすることが出来なかった。
大人たちは私のことを大人しい子だと言い、私も自分のことを大人しい子だと思っていた。
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だれかが後ろの席で叫んでいた。
罵詈雑言を吐き続けていた。
耳が痛かった。同時に恥ずかしくて消えたくなった。
「こっち見てんじゃねーぞ、ブダ」
と、深夜のマクドナルドにいた老婆は壁とけんかしていた。
みんなはそれぞれ窓の外を見ているふりをして、その狂った老婆の一人喧嘩を聞くともなしに聞いていた。
老婆は時々壁を殴り、私たちをおびえさせた。
「ああ、もう本当にヤダ!ヤダ!ヤダ!」
怖かった。他に行くところさえあったら、ここから逃げ出したかった。
老婆は壊れた自動販売機のようだった。
お金も入れていないのに、罵詈雑言が後から後からあふれ出ていた。
老婆の汚い何かが垂れ流され続けていて、東京の深夜を決定的に支配していた。
少しでも老婆の方を振り返ったのなら、老婆の顔はすぐそこにあって、
「見たな!こっち見たな!ブダ!ブダ!ブダ!」
と攻撃してくるに違いない。
「ブダ」って何だろう。
ブダはブの方にアクセントがある。
アメリカ人がブッダのことを発音したら、ブダになるのだろうか?
老婆の言葉の蛇口は壊れてしまっているのだろう。
思ったことがそのまま口に出る。
あるいは、思う前に口に出る。
言葉は脳からではなく、消化器官の中から出ているようだった。
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言葉を話したくない女の子がいた。
私はその女の子を見て、過去の自分を思い出した。
いつかの私も全く話さない子供だったと思う。
今では、人並みに話す。
どうでもいいことを、当たり障りのないように。
言葉はもう伝達でもSOSでもなかった。
それなら何だったのだろう。
言葉は何だったのだろう。
女の子は私の話を聞き続けた。
返事はしないし、うなづきもしない。
だけど女の子は私の話を聞いていた。
賢いフクロウのように、丸い潤んだ瞳で空中を見つめていた。
「退屈?」
と、私は聞いた。女の子は何も答えない。
でも私にはわかった。退屈じゃない。もっと話して。
幼い私は大人の話を聞くのが好きだった。
折り紙を折りながら大人たちの会話を聞いていた。
彼女は私と同じだ。
私は女の子の手を握った。
女の子は何にも動かなかった。
「話さないのは正解だよ。あなたは賢い。話さなければあなたは守られるもの」
私は女の子にそう言った。
いつかの私が欲しかった言葉かもしれない。
「帰るよー」
と女の子の母親が呼びに来た。
女の子は私の手をほどき、母親の方へかけ出していった。
私は女の子のぬくもりが残った手を頬に当てた。
遠くで女の子は母親と楽しそうに話していた。
話していた。
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