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マゴムスメ・ライブラリー 3

 なるほどね。
 もう7月もクライマックスなのですね。

 ここ最近は、色々なこと(ほぼ雑用)に夢中だった。
 精一杯、全力投球でのんびりと取り組んでいたら、あっという間に10日間くらい過ぎていた。
 宝塚歌劇団にいた時、私には曜日の感覚がほぼ無かった。
 今日が何曜日である、ということがあまり関係のない職場だったのだ。
 そのせいでうっかりゴミ出しを忘れ、口惜しさにリビングをのたうちまわることが常であった。
(宝塚のひとが皆そうなのではなく、だらしのない私に限った日常である。)
 そして今の私は、曜日どころか月日、ひいては時間の感覚まで失っている。
 本格的に宇宙の暇人になりかけていることに気づき、私は少し心配になった。
 宝塚を卒業した後は、「立派な大人としてしっかり歩んでいく。」という素敵な目標があったのに、これでは先が思いやられる。
 とっくに大人なのだから今までも立派に歩んでいる必要があったのだが、そんな当たり前のような目標でも無いよりは良いと思っていた。
 私は、潔く決意した。
 目標のレベルを下げよう。
 「立派」「大人らしい」「しっかり」「歩く」このどれかの要素が微量でも感じられるひとを目指そう。
 それならば、何とか達成できそうな気がする。
 心が落ち着いた私は、まず今日が何曜日であるかを確認して、そこから人生の立て直しをはかることにした。

 そんな私に、ようやく活躍の機会が与えられた。


お留守番、それはデスティニー

 ある日、お買い物に出かける母が私にこう告げた。
「もしも雨が降ってきたら、ばあばの洗濯物を取り込んであげてね。」
 朝のニュースのお天気予報は「急なにわか雨に注意」。梅雨らしい空模様だ。
「ばあばが慌てて、転ばないように、気をつけてね。」
 不安げにそう繰り返す母の口調からは、私への不信感がダダ漏れている。
「大丈夫! 任せて!」
 そう言って母を送り出し、一階に住む94歳の祖母の部屋へ赴いた。
「ばあば、今日は雨が降るかもしれないから、そしたら私が洗濯物を取り込むからね。」
 祖母は、にっこりと頷いた。

 
 二階へ戻った私は、信じがたい光景を目の当たりにした。
 窓から見える空は真っ黒な雲に覆われ、大粒の雨が降り始めているではないか。
 たった30秒ほど前に展開された、ホームドラマのワンシーンのような祖母とのやり取り、その余韻も何もない。
 世界的なバレエダンサーを彷彿とさせる跳躍力で、私は一階の祖母の部屋へと引き返した。

「ばあば、雨が降ってきたよ!」
 そう言いながら、洗濯物が干してあるお庭に出ようと掃き出し窓へ走った。
 その私の前を駆け抜けた祖母は、あっという間に雨の中の洗濯物へ突進して行った。
 なんでそんなに速いのか。
 おとなしく、物静かな祖母とは思えないバイタリティだ。
 これが94歳の疾走感。
 唖然としたのも束の間、私はすぐに我にかえった。
 母の言いつけ通りに、祖母の洗濯物をこの手で取り込まなくては。
 なんとしてでも祖母を阻止して、私の手柄を立てる必要があるのだ。
 だがそこで私は、あっと立ち止まった。
 祖母に先を越されたために、私が履くお庭用のサンダルがないのだ。
 一瞬の迷いの後、私は裸足でお庭へ躍り出た。

 容赦無く、この身に襲いかかる暴雨。
 お庭の物干し場には息苦しいほどの湿り気が立ちこめ、あたりはもうびしょびしょになっている。
 雨雫の勢いに顔をしかめながら洗濯物にようやく手を伸ばすうちにも、祖母は驚異的な速度で洗濯物を取り込んでいく。
 この勝負、負けるわけにはいかない。
 私は祖母を押しのける勢いで洗濯物に掴みかかり、雄叫びを上げた。
 あやうく祖母を転倒させそうな勢いだ。
 まさしく「本末転倒」を予感させる、大変なカオス。
 何とか祖母を部屋の中へと押し返し、私は物干し場で最後の力を振り絞った。
 裸足で土を踏みしめるなど、一体何十年ぶりのことだろう。
 雨を含んでぬかるんだ土を蹴散らし、風に暴れ狂う洗濯物と踊る。
 なんだ、この、雨乞いに成功した民が天へ感謝を捧げるみたいなシーン。

 私はただ、ばあばを助けて、お母さんに褒められたいだけなのに。


人生にも、通り雨

 はしゃぎすぎた柴犬のような泥だらけの足を拭かせてもらい、民の舞踏は終わった。
 祖母は、何度もお礼を言ってくれた。
 全身で雨を受け止め疲労困憊したものの、祖母を助けられたという達成感に輝いて二階へ上がると、玄関の方で物音がした。
 ちょうど、母が帰宅したようだった。
 私は自らの大活躍を報告しようと、わくわくしながら二階で母を待っていた。
 玄関先では祖母が「今、大雨の中、何とか洗濯物を取り込んだ。」というようなことを告げているようだ。
 その言葉を誤解した母が
 「ばあばが一人で?! あのひと(早花)にやりなさいって言ったのに…。」
 と忌々しげに話しているのが聞こえてきた。
 なんという、不条理な現実。
 ばあば、そこは是非とも真っ先に孫娘の名を挙げて、私の働きをしっかりとアピールしてくれ。
 祖母の証言一つで、家庭内での私の地位に多大な影響が出ることを自覚して頂きたい。
 
 濡れた服のまま自室に戻ると、開けっ放しの窓から雨水が盛大に吹き込んでいた。
 窓の近くの本やら紙やら、弥勒菩薩の渋いクリアファイルやらがずぶ濡れの有様だ。
 なんだか、頑張ったわりに私サイドの痛手が甚大すぎやしないか?

 
 再び様子を見に、というか母への報告内容に文句を言うために、祖母の部屋へ向かった。
 とぼとぼと現れた私に気付き、祖母は窓の外を指差した。
 「見て。もうすっかり晴れたの。」
 物干し場の上に広がる空は、晴れ渡っていた。
 さっきの驟雨が幻ではない証拠は、お庭の水たまりくらいのものだった。
 あっけらかんと明るい空には、雨雲なんて跡形もない。
 あんなに大騒動で洗濯物を取り込んだのに、空はすっかり知らん顔だ。

 祖母と二人、青い空をぽかんと眺めた。
 私は、自分の眼鏡にびっしりと雨粒がついていることに気が付いた。
 視界を覆っている雨水を拭う暇もなく、お庭と家の中を駆けずり回っていたのだ。
 そんな自分がただ情けなくて、笑えてくる。

 朗らかに笑い続ける私の、水滴だらけの眼鏡をしげしげと見つめて、祖母は呟いた。
 「眼鏡まで、雨。」




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