家康はただ待ったわけじゃない。弱者が最後に勝つための戦略
ど〜もです!
キャリコン×マーケターのおのです。
今回は戦国の世を平定し、その後260年続く江戸幕府を作った徳川家康を取り上げます。
弱小な武家の生まれだった家康は、弱者がいかに生き残っていくのかという戦略をまさに体現する人生だったように思えます。
今川と織田の双方の人質だった時代
今の愛知県の東側、三河の国が家康が生まれた松平家の所領でした。
西に尾張の織田家、東に駿河(今の静岡県)の今川家に挟まれ、勢力争いの綱引きが行われる立場となります。
家康の父は今川方についていたため、人質として今川に差し出されるところ、織田に攫われました。その後交換される形で今川方の人質となったため、その両家で人質となる経験をしています。
その織田家への人質の時に、9歳年上で後に同盟関係となる織田信長とも出会っていたと言われています。
二大勢力の争いに乗じて独立・織田と同盟
今川方として初陣を飾っていた家康ですが、桶狭間の戦いを転機に独立を果たします。
破れた今川方が引き上げ、空白地帯となった西三河エリアを素早く攻略したのです。
そしてその後織田信長と同盟を組むことになります。
美濃(岐阜)の斎藤家、その先の状況を見据える織田信長にとって気になる存在は、その背後をついてくることになる武田信玄でした。
織田の所領より東に位置する徳川と組むことで、背後の守りとして京都へ登れるようにすることが目的です。
直接の家臣ではないものの、初期からの織田の参加として、織田信長の天下統一事業に多大な貢献をすることになります。
唯一大敗を喫した三方ヶ原の戦い vs武田信玄
そんな家康が最も大きく大敗したのは武田信玄との三方ヶ原での戦いです。
家康を素通りしようとする信玄を、周りの反対を押し切って討って出て返り討ちにあった戦いで、逃げ帰った家康はその時の自分の肖像画を描かせて生涯の戒めとしたことは有名な話です。
ここ以降特に、戦いを避けるところは避け、勝てる時に一気に攻めるというような戦い方になっていったように思います。
家康はただ待つのではなく、勝機を見出すまで待ち攻める時には攻める!
鳴くまで待とうとは言いますが、
・今川義元亡き後の今川領の攻略
・武田が今川氏真を攻めた際には家康も今川を攻めて領土拡大
など、攻め時にはしっかり攻めて領土拡大を果たしています。
一方で信玄に敗北した家康は、負け戦で大きな損失を被るのを避けていきます。
織田信長死後の織田家の跡取り問題に際して、秀吉と対立した小牧長久手の戦いにおいては、戦況不利と見るや停戦して秀吉に降り、
静岡などの元々の所領を取り上げて関東に実質左遷を命じられたときも反発せずに受け入れています。
それを理由として、秀吉の朝鮮出兵を断り、結果多くの大名が力を落とす中で力を蓄えることにも繋がりました!
そういうチャンスが来るまで力を蓄え、戦うべき時に戦う姿勢が、最終的に家康を天下人に押し上げた要因だったのでしょう。
結論、ただ待つのではなく追い風を見極め、攻める時には攻め込む。逆風の時には停戦などして負けておく。そういった見極めが最後に勝った秘訣だったのではないでしょうか。
何か皆さんの取り組みの参考になれば嬉しいです。
では!本日もあなたにとってイキイキした1日を〜!
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