なぜ私が、批判的精神、批判的思考であるのか。(真理とはあると同時に無いのである)

まず人間が真理に少しでも近づこうとする時、
一番重要な事は、
疑う事、懐疑的である事である。
具体的な事例で言えば。
「私は存在する。」
貴方がこの文章を読んでいて、
「私は存在する。」ということに対して、
そこに疑う余地はあるだろうか?
普通はそこに一切の疑いの余地はないであろう。
何故ならば、
現に「私は存在する。」からである。
しかしその様に自明性の様に思い込んでいる、
その様なあらゆる概念や意味、現象や存在。
その様なものこそ「疑い」「懐疑的」に思考する。
それが私の言う「批判的精神」「批判的思考」である。
そして私がこの様に日々綴っている言説は、
そのほとんどが「批判的精神」「批判的思考」、
それに基づいて言説している。
私は「趣味趣向」や「感情論」で批判している訳ではない。
それはある一定の知的次元や知的作法、
において共有可能なものである。
その共有が多数の方々とできている事は、
私は理解しているし実感している。
しかしまた別にある一定数、
私の本位とは異なる次元において、
私の批判を受け止めている方々が居る。
またその様な事実もある事を、
私は十二分に理解している。
この様な次元の違いによる、
ある種「大衆」とのコミュニケーション不全は、
どの様な時代にもあるものであり、
現代にもその様な問題を私は多数散見し、
私自身もその解決を模索する一人である。
私がこの様なある種のコミュニケーション不全を、
何故解決しようとするのか、
それはそのコミュニケーションの当事者同士はもとより、
社会全体にとっての損失であると考えるからである。
特に近代から現代に渡り、
あらゆるものが「民主化」される中での、
あらゆるものの「大衆化」が、
より一層「大衆の低次元化」を進め、
その「大衆の低次元化」による、
資本や権力の集中、
さらに知性や情報の集中が加速し、
社会に表層されない、
ある意味における「次元の格差」を、
産み出しいてる。
その意味において、
「民主的な連続性を創造する」という模索は、
現代において非常に重要なテーゼである。
その様な「連続性」を模索していると、
私が考えている著名な人々を例にし、
「民主的な連続性」を諦めず、
いかに創造していくのかを言説していきたい。
まず現代から過去へと、
その実践者を上げていくことにする。
それは例えば現代で言えば、
哲学者の東浩紀、
アーティストの村上隆である。
この二人に関しては、
まさにリアルタイムで、
「民主的大衆性」との「連続性」を、
いかに創造するかという模索を行い、
またその非常に難しい行為と、
真摯に向き合っている。
さらに世界的に言えば、
バンクシー、
そして過去から言えば、
アンディウォホールなど。
その痕跡を見出す事ができる。
この様に上げた人物たちの共通点として、
「民主的大衆性」との「連続性」の「創造」、
それが共通点としていえる。
しかしこの行為の危険性として、
その「連続性」が成功しても、
ある種「大衆化」する事で、
本来の「連続性」との分離が生じ。
「連続性」が無くなることで、
それがただ単なる、
「シンボル」や「スローガン」に、
「低次元化」してしまう事である。
しかしこれは正に「人間の真理」であり、
それは哲学者の西田幾多郎の言葉、
「絶対矛盾的自己同一」として集約できる。
つまり「人間の真理」とは「矛盾」である。
それは相対性において、
一つの極を「真理」とした時、
途端にその対極が「真理」となる。
しかし人間はその事は認知できない。
つまり「人間は真理にたどり着かない」のである。
「真理にたどり着かないという真理」、
正にそれに気づくことこそ、
「批判的精神」「批判的思考」なのである。
何故ならば「民主的大衆性」とは、
一つの真理に基づき、
それが「大衆化」され、
それが「自明性」を持つ。
その自明性こそが「フィクション」である。
そのフィクションに「自明性」が無いことを、
気づかせる事のできる存在が、
哲学者や美術家なのである。
私はこの様な、
「批判的精神」「批判的思考」の論理の中で、
より優れた「連続性」を創造した人物として、
大乗仏教における親鸞だと考えている。
例えば現在世界的に、
仏教における「禅」などが取りざたされている。
しかし例えば禅宗である曹洞宗などで考えてみても、
「覚り」に到達することを目指し、
自らの修行を行う事を前提としている。
しかし親鸞などの教えをベースにする、
例えば浄土真宗などは、
「南無阿弥陀仏」の念仏や、
「他力本願」など、
「真理」を簡素化しながらも、
「連続性」を持って実現している。
しかしここでも、
「他力本願」というものが、
現代では「他人任せ」などと認識され、
その「連続性」が「大衆化」によって、
分離されている現実もある。
ここまで「真理」と、
その「大衆化」が産み出す、
「連続性」からの「分離」、
そして「分離」後の、
「シンボル化」「スローガン化」。
つまり「他力本願」という、
概念的「次元の劣化」。
ではこの様な今まで述べてきた言説から、
私は何を言いたいのか。
それは、
常に「真理」は「大衆」には存在しない、
という事である。
その時に「真理」を指し示す方法として、
哲学者や美術家は、
「大衆」とは対極に立ち、
自明性を批判する事で、
仏教的な「中観」という認知や、
アウトラインを表出させるのである。
この様な考察から、
哲学者や美術家は、
「大衆」から観た「他力本願」でなければならない。
つまり覚りを体験したものでなければならない。
批判的であり得るという事は、
「大衆」が「スコトーマ」になっている、
その「真理」を「表出」させる、
という事であり、
その作法であり、
その思考である。
だからこそ、
私は大衆、
つまり「社会」とは対極に立ち、
その「社会」を批判的に捉え、
「中観」をこれからも、
アートを通して「表出」させていくのです。
美学者母

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