あいちトリエンナーレ2019の平和の少女像撤去についての論考。DJ社長と津田大介、バンクシーに通づる炎上商法の共通点と原理的な違い。(アートディレクターやキュレーターが作家性を無名性に変え自ら作家性を獲得する事の疑問)

どうも美学者母です!!!
毎年夏になると遊びに集中しすぎて、
ネットでの活動を忘れてしまっていますwww

たまにネットも観ていて、
あ〜こんな事が問題になってるんだぁ〜って、
そんな感じで過ごしているのですが、
なんとなく最近問題になるニュースの共通点というか、
その様な事に気づいたので記述します。

僕はアートが専門なので、
アートのニュースにはやはり目がいくのですが、
最近、
あいちトリエンナーレ2019での、
平和の少女像撤去のニュースが、
沢山流れてきます。

まず端的に結論から言いますと、
あいちトリエンナーレは税金が10億位?
入っていると報道されていますね、
この時点で表現の自由だなんだっておかしい、
これは以前会田誠の公共の美術館での展示、
でも言いましたが、
税金を使った上で表現の自由を訴えるのは、
これは全く筋違いであるという事です。

芸術家、作家性というものは、
あくまで「自己完結」で「自己責任」。
自分の金で自分で全責任を持って、
自分で勝手にすればいいし、
それに対して誰も文句は言わないし、
それこそそれで誰かが文句や撤去をしろ、
それはまさに「表現の自由」の妨害です。

しかしこれはあくまで税金が使われている。
僕は前々から言っていますが、
芸術家や美術家が、
税金を元に作品作ってる時点で、
それはもはや論外である。

それを前置きにしておき、
次に津田大介を芸術監督にした時に、
この様な事が起こることは、
十二分に想定できるわけで、
津田大介を芸術監督にした人間が、
そもそもこの騒動を演出しているわけです。

そして津田大介はアート素人なわけですから、
アートのコンテクストを理解して、
ディレクション、キュレーションする能力が無い、
だからこそ、
この様な政治的コンテクストによるものを、
アートのコンテクストで語るという矛盾を起こすのです。

しかしその矛盾を利用して、
自らの表現にしてこの騒動を企てたのも、
津田大介だという事です。
そして作品撤去も含めて、
想定どうりの表現が、
津田大介としてはできたのでは無いでしょうか、
昨今この様な個々の作品や作家性を無視した、
キュレーターやアートディレクター主導の、
アート表現が非常に多く観られます。

それはアートがエンターテイメント化し、
ある種のイベント、祭り的な、
ビエンナーレやらトリエンナーレやらと、
本来フォーカスするべき作品作家では無く、
イベント全体のエンターテイメント化により、
それをディレクション、キュレーションする、
その人間の表現素材として、
作品や作家が扱われている事に、
非常にアートの危機を感じます。

つまり今回撤去された、
「あいちトリエンナーレ2019」の、
平和の少女像が問題になる事は、
これが開催される前から誰の目にも明らかで、
それが撤去しなければならなくなる事を、
津田大介は予見していたでしょう。
つまりこれは津田大介の画策であり、
展示し撤去されるという事態自体が、
ある意味津田大介の表現であるわけです。

例えばここで一般の人は疑問に思うでしょう、
撤去を前提にした表現があり得るのか?
それは普通にあり得ます。
例えば私は1998年頃にグラフィティライター、
をしておりましたが、
グラフィティというものは違法な行為です。
ですからグラフィティライターというのは、
それが消される事を分かって、
電車や街の壁に落書きするわけです。

グラフィティは排除されるそれそのもの、
それも含めてグラフィティであり、
一瞬でも多くの人の目にとまる事を考え、
それは時に一時間とか数十分で消されるものです。

つまり現代において、
消される、破壊される、撤去される、
それらもアートの中の一つの表現としての意味、
を持つわけです。

それらを上手く使っているのが、
バンクシーです。

バンクシーはある種、
公共性と非公共性、
価値と無価値、
意味と無意味、
その様な人間が信じているある種ドグマに、
揺さぶりをかけてきます。
バンクシーの作品は、
オークションになれば数億、数十億。
しかし彼は自らの作品をストリートで書きます。
以前東京でバンクシーのネズミの作品を、
切り取って保管するというニュースで、
物議を醸しました。
それはまさに、
彼が企てているアートそのものなのです。

ここで津田大介とバンクシーの対比ができます。

同じ様に企てている表現が存在し、
それは物議を醸しています。
しかし一方は税金で行い、
一方は自己完結で行なっている。

私はアートは自己完結的であり、
自己責任であるべきだと考えています。
そしてその上で初めて、
「表現の自由」を獲得できるのだと。

つまり今回の津田大介は、
税金を使い、作品や作家性を奪い、
自らの表現としてそれらを使い、
炎上させ、撤去させる、
その様な自らの企てを、
多くの他人を巻き込み、
犠牲にし行なった。

この様な自己中心的で、
大きなインパクトを起こしたいが為の、
行為に見えて仕方ありません。

つまり「作家性」から「大量消費」への、
表現の移行を強く感じるのです。

作家や作品を無視した、
アートディレクターやキュレーターの、
この様な振る舞いは、
まさにアートのエンターテイメント化なのです。

今回のこの件に関して、
私はバンクシーを相対化させましたが、
津田大介と同類だと感じたのが、
レペゼン地球のDJ社長です。

最近のニュースで知っている方もいる、
と思いますが、
後輩の新人をパワハラしたことで、
炎上し謝罪動画を作り謝罪、
そしてこの一連のパワハラ自体が嘘で、
自分の新曲を宣伝する為の企てだった。

まさに僕は、
津田大介とDJ社長は同類だと考えています。

少なくとも私は、
今回問題になった作品がどうこうより、
この様な形で、
アートが作家性を失い、
エンターテイメント化していく事、
また責任や資金が「自己完結」できない、
そんなものが根本原理として、
アートとして以前に表現として、
いいものでは無いと考えています。

現段階の最新情報では、
どうやら撤去されるという事ですが、
僕からすれば「ツマラナイデス」www

美学者母

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