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山とまち

「山の上で暮らすって、どんなだろう?」

登山を始めた8年前から、ぼんやりと夢見ていたように思う。

山小屋で働くということ。
そして、山の上で暮らすということ。

はっきりと意識するようになったのは、2年前に友人が山小屋で働いていて、そのときのことを綴ってくれた記事を読んだとき。

参照:山で暮らす|akooooo's blog 『生きるを学ぶ』あゆみ道。

あのときから2年。
タイミングと縁が訪れ、山小屋で働かせてもらうことになった。


山の上で暮らしてみると

日本の山の中で、第3位の標高(3,190m)を誇る奥穂高岳。
その麓にある山小屋「穂高岳山荘」。

自分が働かせてもらった、山小屋の名前だ。

穂高(連峰)といえば、登山者にとっては、とても有名な山。富士山が日本人なら一度は登りたい山だとすれば、穂高は登山者なら一度は登りたい山といえる。

山の上の生活は割と、というより予想していたよりもかなり快適だった。それには、理由が幾つかある。

生活して痛感したのだが、その快適さは水があるかどうかで大きく変わる。穂高岳山荘は、稜線(山の峰から峰へ続く線)上にあり、雪渓による天命水を利用できる他、貯水設備が整っていた。

穂高岳山荘は、今年で95周年を迎えるほど、代々受け継がれてきた伝統的な山小屋であり、設備面も他の山小屋よりも比較的整っている。

電力も、エンジン駆動に頼るだけでなく、太陽光発電や風力発電も真っ先に取り入れた先進的な山小屋だ。

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山の上での暮らし。
晴れた日には観える、圧倒的に綺麗な景色たち。

天高く、そびえ立つ穂高連峰。


北アルプスの山々と稜線。


壮大に広がる雲海。


雲はときに表情を変え。


白い海に沈む夕陽。


夕陽が天に映える。


満天の星空。


遠く見える積乱雲の稲光なんかも。


季節は変わり、秋の紅葉。


冬の足音が聞こえてくるかのように、霜も降りた。


表情豊かに、色鮮やかに変化していく、山々と空の景色たち。

「自分は地球の上に立っている!!」
圧倒的な景色を前に、何度もそう感じ、その度に胸が震えた。

どの景色も素晴らしかった。だけど、実は一番好きな景色が他にある。

山々の遠く。写真だと全く映えないけど、小さく観える「まち」の姿。

自分が一番好きだったのは、「山」と「まち」の両方がある風景だった。


小さい頃の記憶

山小屋の休憩時間や仕事の終わりの時間。天気の良い時は、山の景色を広く一望しながら、考え事に浸ることも多かった。

「自分はどうして山に登るのだろう?」
これが、考え事の内の一つ。

ある日も、そんなことを考えながら、山の向こうにある景色をぼんやりと眺めていると、ふと小さかった頃の記憶が蘇ってきた。

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自分が小さい頃に暮らしていた地元は、ちょっとした丘陸地を開拓した、郊外にある住宅街で、坂道の多いまちだった。

小学校も、中学校も、坂を上って登校していたから当時は大変なものだったけれど、下校時には、広くまちを眺められる土地でもある。

部活の帰り道には、夕暮れや夜空の下、まちを眺めながら帰ったものだ。

高校は、地元から少し離れ、自転車で40分ほどの場所だったけど、これもまた高台の上にある学校で、帰り道はまちを一望することができた。

昔から、高いところからまちを一望するのが好きだったのだ。
よくよく考えると、今もどこかに旅をして、新しいまちに訪れると、必ずと言ってよいほど、高い場所を探して訪れる習性がある。

高いところから観ることのできる、まちの全体像。
そこに、1人1人の暮らしの集積を垣間見て、愛おしさを感じることができるからこそ、高い場所からの景色を常に探し求めている。

だからこそ、今も山に登る。
山を登る理由は、他にもあるけど、それが一つの理由だ。


休暇中のまちにて

「自分はまちで暮らすのが好き」ということを改めて思い知らされた。

山の上の生活は、壮観な景色が観られるものの、一方で、物足りなさがあった。これは、いつもは登り下りしていた山に、ずっと滞在しているからこそ感じるものだと思う。

「山は留まるのではなく登りたい、縦走したい」
「どんなに綺麗な景色でも好きな人と観たい」
「山の上だと、ふらっと友達と会えない」
「じっとするのではなく、どこかに移動したい」

そんな物足りなさを抱き、いつしか、まちが恋しくなった。

山小屋での勤務も2か月が経つ頃、1度だけ長期の休暇をもらえた。だから、一度、山から下りて、まちを楽しむことにした。

山の向こうに見えるまち、松本へ。

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下山して2日ほど滞在した、北アルプスの麓のまち、松本。

まちを散策し、気になるカフェを数か所訪れ、山では味わえない2カ月ぶりの感覚に浸りながら、まちを存分に楽しんだ。


台風が近づいていたから、束の間の散策だったけれど、それでも久方ぶりにまちで過ごす時間はとても楽しいものだった。

だけど、不思議なもので、山を下りると、また山に登りたい気持ちが沸々と湧いてくるのを憶えた。松本は、山がすぐ近くに見えるから、尚更である。

なんだかんだで、山もやっぱり好き。それが、正直な気持ちだった。

松本を離れ、一度自宅に戻って用事を済ませた後は、再び山小屋への仕事へと戻った。


山とまちと、自分の在りたい姿

以前、箱庭セラピー(療法)というものを受けたことがある。

※箱庭セラピー(療法)とは
ミニチュアを用いたカウンセリングで、心理療法の代表的な手法として知られている。方法はとても簡単で、砂で敷き詰められた箱の中に、自由にミニチュアを配置していく。これだけで対象者の深層心理がわかり、現在抱えている悩みや心の姿が浮き彫りになる。


これは、そのときに作ったミニチュアだ。

簡単に言うと、左が「まち」で、真ん中の橋を右に渡ると、荒野だったり山だったりが存在している。

自分はよく人から、「安心感、安定感がある」とか「穏やか」と言ってもらえることが多い。そう言ってもらえるのは、ありがたいことだが、それは自分の一面にしか過ぎない。

自分は、穏やかなだけでなく、もっと冒険していたい人だし、人には見せない情熱や激しさを持っている(と思っている)。

ミニチュアで表されるのは、山や荒野に冒険して新しいものを身に付け、その新しいものをまちに持ち帰り、暮らしを作り、守っていきたいという心の姿。

自分にとって、「まち」は、安心感・安定感・穏やかさなどを表し、暮らしを創っていく場所。「山」は、己の冒険心・情熱・向上心を表し、人の手では敵わないものにチャレンジしていく場所をそれぞれ象徴している。

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「山」にしろ、「まち」にしろ、共通し、一貫していることがある。それは、自分の力を存分に扱って、道を切り拓き、まだ見ぬ新しい景色、新しい世界を探しに行くのが好きだということ。

「まち」なら、理想の暮らしを自らの手で創っていき、「山」なら、自然と対峙し、より難しい局面に挑戦する。

そして、どうせ新しい景色や世界を見に行くのなら、好きな人、大切な人と。互いに切磋琢磨しながら、乗り越えていきたい。

それこそが、自分の人生の喜びであり、生き甲斐である。

これが山の生活を通して、思い至ったことだ。


最後に

穂高連峰は、”山岳救助”について描いた漫画(映画)の「岳 みんなの山」の舞台ともなった場所である。有名で人気な場所でもあるが、その分、危険な個所も多く、遭難や事故の絶えない山岳地帯でもある。

夏の間、何か事故があったときのために、山岳警備隊の方が、山小屋に常駐されていた。

だから、事故や遭難があれば、警備隊の方から、その情報が流れてくることもある。その情報の中には、命を落とされた方のことを聞くことも少なくなかった。

山小屋は、登山者の宿泊の受け入れ、物資の補給場所の役割の他にも、その場所にあることで、救助に向かう警備隊の拠点となり、登山者の安全を守る。

山小屋があるからこそ、我々、登山者は安心して山に登ることができる。

***

山は危険な場所なれど、それでもまだ登りたいと思う。むしろ、もっとチャレンジしたいし、色んなアクテビティもやっていきたい。

山小屋がどれだけ重要なのかを理解し、命を賭けて山の仕事に携わる人たちに触れたからこそ、これからも安全に気を付けて、山に挑戦したいと思える。

約3カ月の山小屋の暮らしを経て、「山」も「まち」も、もっともっと好きになった。

いつかまた山へ。また新しい景色を観にいこう。


【写真引用】
松本城と山
松本市街地
▼カフェ①:珈琲美学アベ
▼カフェ②:栞日

&photo by
◎Hirotaka Kinoshita (@nise-peak)
◎Midori Sanada (@midorisanada)
他 山小屋の仲間たちより






P.S.山小屋の仲間たちと

色々なことを思い、考え、過ごした山小屋の生活。

正直、まちが恋しくなったり、今年は天候が悪く、お客さんが少なくて退屈な時期もあったけれど、それでもやっぱり楽しいと思えたのは、山小屋で出逢った仲間たちのおかげだと思う。


みんな、ありがとう!また山で!

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