見出し画像

#09 真夜中、缶コーヒー、新しい星座

 これは今日中には帰れないな。
 オフィスの隅にある誰もいない喫煙所に入る。重要なプレゼンを来週に控え、私の頭の中は混乱していた。方向性を完全に見失っている。これまで自分一人で進めてきたから、助けを求める相手もいない。どうして立候補なんかしたのだろう。そうだ、あのとき部長が「君なんかに出来るのかねえ」と嫌味たっぷりに言うものだから、ついムキになってしまったのだった。今は部長よりも浅はかな自分の行動を呪いたい。
 灰皿には山盛りの吸い殻。換気扇は全く役に立っていない。私の髪や服が、部屋中にこもっている煙草の匂いをたっぷりと吸い込んでいる。自宅の洗濯機には同じような匂いのする衣服が押し込まれているから、後でまとめて洗濯しよう。そんな時間があればの話だけれど。
 煙草に火を着けて大きく吸い込み、染み入るような感覚を味わってからゆっくりと吐き出す。その仕草は若い頃に毛嫌いしていたオジさん連中そっくりだった。いつからこうなったんだろう。そんな無駄なことを考えてみる。入社して間もなくはそうではなかったはずだ。先輩社員に迷惑をかけないように、特に同性の先輩社員には目を付けられない為にも、必要以上に目立たないようにしていた。でもそれじゃ余りにも窮屈だったので、少し仕事を覚え始めた頃から自分の意見を言うようにした。途端に私の身体中に「面倒な女」のレッテルが貼られた。最初は剥がそうとしていたけれど、いつしかそれも面倒になって止めた。どうやら世の中は自分を押し出すと邪魔者扱いされるらしい。私としては自分を殺してまで周りに迎合したくないので、入社して15年が過ぎた今でも、この環境に身を置いている。
 気休め程度の休憩を終えて、私は喫煙所を出た。自分の席に戻る途中、大きな窓から外を眺める。もう少しで日付が変わろうとしているのに、街が眠ることはない。隣のビルの窓にはいくつか明かりが点いているし、終電をめがけて走る人々の姿も見える。そんな景色のはるか先に弱々しい星空が見えた。星を見るのは久しぶりだ。街の灯りに遠慮しているのか、星は居心地が悪そうだった。本来ならば淹れたての温かいコーヒーを飲みながら、拙い想像力に任せ、星たちを線でつないで新しい自分だけの星座を考えていたいところだが、そんな余裕はどこにもない。
 自分の席に戻り、パソコンを起動させる。進展の兆しが見えない画面を前に、大きくため息をついた。自分がどうしてここにいるのか分からなくなりそうで、意識が逃げ場所を求めている。……そうだ。小学生の頃、私は宇宙飛行士になりたかった。当時は日本人女性初の宇宙飛行士の話題で持ちきりで、オレンジ色の宇宙服を着て颯爽と歩く彼女の姿に憧れた。ごく限られた人間しか行くことのできない宇宙空間で、一体どんな発見があるのだろう。ワクワクしながらニュース映像を追いかけた。「私も宇宙飛行士になりたい」と言うたびに周りの人たちは笑っていたが、それでも私の想いは空へと広がった。
 あれから随分と時間が流れた。いつの間にか覚えた「現実を知る」という言い訳で、当時の想いはすっかり覆い隠されてしまった。例えこうしてたまに顔を覗かせたとしても、そこにあるのは卒業アルバムを開くときに似た懐かしさだけだ。己を知り、身の丈に合った暮らしをするために働き、そこそこの給料をもらう。その妨げになるようなことは極力避ける。人生は取捨選択の連続。これでいい。そうでも思わないと、これまでの自分を否定することになる。これでいい。これでいい。これでいい……。
「あれ、まだやってたんですか」
 その声にふと我に戻る。振り向くと五つ後輩の男性社員がいた。
「ちょっと忘れ物しちゃって。明日から出張なんですよ」
「そう」 
「来週の準備ですか。大変ですね」
 すると彼は私の机の上に缶コーヒーを置き「手伝いますね」と言った。
「いいよ、明日から出張なんでしょ」
「大丈夫ですって。あ、これですか」
 彼は半ば強引にデータの整理を始めた。ブツブツと独りごちながら資料を眺め、パソコンに打ち込む。静かな室内に、彼の独り言とキーボードを叩く音が重なった。そんな後輩の姿を、私は横から眺めていた。確かに手伝ってくれるのはありがたい。しかしこれでは私が帰りたくても帰れないではないか。親切心が仇となる典型的なパターン。これだから最近の若い人は、
「このプレゼンが終わったらどっか行きませんか?」
「え?」
「星を見に行くとか。綺麗に見えるとこ知ってるんですよ」
「……」
「後輩の俺が言うのも難ですけど、頑張りすぎですって」
「……」
「あ、次これですね」
「……」
 何となく手持ち無沙汰を感じて、私は缶コーヒーの栓を開けて一口飲んだ。夜中に飲むにしては甘すぎる。こんなときはブラックがベストなのに。あ、私、煙草臭くないかな。ホントにもう、来るなら来るって前もって教えてくれればいいじゃない。気の利かない奴。それにしても彼は何を言ってるんだろう。もしからかっているのだとしたら許すわけにはいかない。いかないけど……。
「ほら、君はもう帰りな。明日出張なんでしょ」
「いや、でも」
「ありがとう。……考えとくから。おやすみ」
 久しぶりに新しい星座が思いつくかもしれない。ほんの少しそう思った。(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?