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#06 そして彼女はマンタに乗った③

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 雨音が車内の静寂を埋めた。立ち往生してから二時間が過ぎてもJAFが来る気配はなかった。降り続く雨は止むどころか更にその勢いを増し、霧も深く立ち込めていた。このまま誰も来ないとしたら。そんな馬鹿げた妄想がふと頭をもたげる。

 どこでもいいから、遠くに行きたい。
 彼女のそんな一言がきっかけだった。日常的に繰り返される夫の暴力から逃れたい。目的地は遠く。行き先はどこでもいい。どのような経緯でそんな話になったのかは忘れてしまったが、気がつけばそれだけを抱えて、僕らは車を走らせていた。展開の速さに驚きつつも、それが何かの導きによるものだとしたら、僕らは甘んじて受けたことになる。
 彼女のスマートフォンが鳴った。僕は視線をそらし、無関心を装いながら、彼女がどうするのか気にしていた。
「……もしもし」消え入りそうな声に、僕の身体に緊張が走る。
「どこでもいいでしょ。……戻る気はないから。だって戻ったらまた同じことの繰り返しでしょ。……そんなの嘘。都合のいいこと言わないで。もういい。それじゃ」
 有里は乱暴に通話を打ち切り、「車が治ったら、近くの駅まで送ってくれるかな。そこから電車に乗るから」と言った。
「どうするんだよ」
「わかんない。でもこれ以上ヤスを巻き込むわけにはいかないよ」
 有里の口調は何故か穏やかだった。それは状況を見越しているかのようでもあり、何かを諦めているようでもあった。
 それから彼女はドアを開けると、手にしたスマートフォンを外に放り投げた。雨を切り裂くように描かれた弧は、道路脇に生い茂った雑草群に吸い込まれた。雨脚がまた強くなった気がした。

 何度も離婚してってお願いしたの。でも全然応じてくれなくて。その度に殴るから、最近は何も言わなくなった。かなりプライドの高い人だし、妻が離れていく事実が許せないんだろうね。自分の所有物か何かだと思っているのかも。ほら、ここ痣になってるでしょ。ここも。こうやって隠さないと外にも出られない。もう無理だよ。遠くに行きたい。どこでもいいから、どこか遠くに……。

 捨てられたスマートフォンに、有里の想いの全てが込められている気がした。重苦しい沈黙が車内を支配していた。このまま彼女の言う通りにしていいのか。僕は判断のつかないまま、その重さを感じるしかなかった。
「ねえ、覚えてる?」沈黙を破ったのは有里だった。
「うちの学校に移動美術館が来たときのこと」
「ああ」
 移動美術館とは、市内の高校に絵画や彫刻などの美術品を期間限定で貸出し、身近に芸術作品を感じもらうことを趣旨とした市の企画だった。三年生の春先の頃だったと記憶している。体育館へ続く広い廊下に有名なものからそうでないものまで十点ほど並べられ、自由に観ることができた。
「一つだけ忘れられないものがあるの。空を飛んでいるマンタの絵」
「マンタ?」
「何か不思議な絵でさ。夜の海辺で、濃い青の海面に満月が映ってるの。どこか南の島だと思う。マンタって海の生き物なのに、その絵ではたくさん空を飛んでるんだ。月に向かって。ううん、きっと天国に向かって」
「……」
 そこにあるのは柔らかで優しい月の光。ずっと見渡しても陸地は見えない。穏やかに寄せては返す波の音まで聞こえてくるようだ。正に大海原と呼ぶに相応しい風景が広がっていた。
 俄かに海面がざわつき、そこから無数のマンタが、水しぶきを上げながら飛び出してきた。数にして数十匹はいるだろうか。荒々しさは微塵もなく、ただ優雅にひれを上下に動かしながら舞うように空を飛んでいた。月明かりの黄金色と海面の群青といったコントラストの中で、今まで見たことのない世界が繰り広げられていた。微かな光に導かれて空を舞うマンタ。それはこの世での役目を終えた魂が故郷へ帰る儀式に見えた。
 多くの生徒が関心を示さずに素通りしていく中、有里は長いこと空飛ぶマンタの絵をじっと見つめ、僕はそんな有里の背中を眺めていた。
「いいよね、これ」
「俺はよく解んないけど」
「見た瞬間に、出来ることならマンタに乗って空を飛んでみたいって思ったの。ねえ、どんな感じかな。気持ちいいかな」
 瞳を輝かせて有里が話す。子供じみてはいたけれども、彼女の願いはどこまでも透明度が高く、余計なものを一切寄せ付けない強さが感じられた。有里らしい。僕は素直にそう思った。体育館からバスケットボールの弾む音が聞こえた。
「決めた、私、絶対マンタに乗って空を飛ぶ」
「……」
「馬鹿な奴って思ってるでしょ」
「そんなことないよ」
「いいの。自分でもそう思うから。でも今のこの気持ちだけは、ずっと忘れずにいたい。私がこの瞬間に生きていたという証として」
 それからも彼女は寸暇を惜しんでその絵の前に立った。そこから発せられている全てを身体に染み込ませようとしていた。僕は時には隣で、時には少し離れた場所でそれは移動美術館が終わる一ヶ月間、毎日続けられた。

「時々思い出すの、当時のこと。楽しかったなって」
「……」
「あの頃は考えたこともなかった。こうなるなんてね」(続)

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