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怒りを忘れたキリスト者(上)

10年目の回顧。(2011年7月4、5日「松ちゃんの教室」ブログ記事再掲)

正しく恐れ、正しく怒る必要

 2011年6月7日付「中外日報」の社説は「恐れと怒りからは何も生まれ出ない」と題して、次のように主張した。

 インド独立指導者・ガンジーに倣って綿を栽培し、糸を紡いで自給自足経済の尊さを説き続けている片山佳代子さんは、……「震災について恐れたり怒ったりするよりも、建設的なことがあるはず。過ちを繰り返さず、本物の豊かさを手に入れる道を探りたい=要旨」と、知人宛ての転居の便りに記している。
 (中略)原発からの送電量が増大したことにより、文化的な生活を享受してきた多くの市民にも反省すべき点があることは、片山さんの転居通知が示唆している。ヨハネ福音書の「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」の一節を想起させる。恐れや怒りを超えた視点を確立したい。

 これには半ば同意する。私も5月18日のつぶやきで、宗教者の立ち位置についてこう言及した。

 その根底には、世間の価値観を超えた宗教者(キリスト者)ならではの視点があるはずだという思いがある。ただ一方で、片山さんが言う「過ちを繰り返さない」ためには、正しく恐れ、正しく怒る必要もあるのではないかと思う。「罪を犯したことのない者が、……石を投げなさい」という聖句の引用が、本来必要な責任の追及や構造悪に対する批判までをも「自粛」させてしまわないか、との危惧も抱く。

 かつて某教団に属していた元牧師による性暴力事件を、「被害者」の母からの証言で報じたことがある。

それに対し、ある牧師から記事の取り上げ方について、こんな意見をいただいた。

 神の正義と公正、教会の聖さを表すという、教会本来の務めに心を砕くことをしなければ、同情や義憤ばかりが先行するのではないでしょうか。そうなると、このような問題と教会が「無縁ではない」と強く訴えたところで、せいぜいモラルの問題として受け止められ、「赦し」や悔い改めについて掘り下げることにならないでしょう。

 他教派の同類の事件とあわせて、イースター号で特集した記事だったが、「被害者」側の情報に偏った報道で、特集の前提が明確でなく、緊急性と公平性に欠き、これでは「予防にも助けにも抑止力にもならない」という厳しい指摘だった。これに対し、私は概ね以下のように答えた。

 人間的な同情や義憤も、神さまから授かった大事な賜物だと考えます。むしろ、低下するキリスト者のモラルの問題にも目を向け、神の義があらわされるようにと祈り、自身の罪、教会の罪を告白していくことが「教会本来の務め」ではないでしょうか。

 教会の務めと、キリスト教メディアの務めはイコールではないし、まして原発事故にまつわる東電の過失と「性暴力」とは性質が異なる。しかし、いずれのケースでも決定的に欠けているのは、感情的なだけではない静かな怒りと、人間が犯す不義に対する憤りではないか。そして、それこそが今、「キリスト教がすべきこと」の一つだと思えてならない。

苦しめているものへの怒り

 震災後、キリスト教各誌において「思索するための手がかり」が少なかったことは以前の記事でも触れたが、その中でひと際印象に残った論考が5月号『福音と世界』に掲載された川端純四郎氏(元東北学院大学助教授)の「『三・一一』以後――東日本大震災十日目の報告」だった。

 第四は、キリスト者としての私にとって非常に重大な問題です。それは、このような日本史上空前の大災害に直面して「神のみ旨」を問うことの意味です。
 ノアの洪水のように、この災害を人類の悪に対する神の審判と受け止めるべきなのでしょうか、あるいはヨブ記第一章のように「神与え、神取り給う、神のみ名はほむべきかな」というべきなのでしょうか。
 それともヨブ記第四二章のように不可解な神の巨大なみわざの前に沈黙すべきなのでしょうか。あるいは獄中のボンヘッファーのように、すべてのことを説明する「神という作業仮説」(説明原理としての神)を放棄すべきなのでしょうか。
 私自身の身に起こる不幸についてならヨブのような信仰はあり得るかも知れません。しかし、あの一面の広漠たる津波災害の跡地にたって、愛する家族を失った被災者の人たちに向かって「神のみ旨」を説くことは、私にはできません。
 私にはボンヘッファーの道しかないように思われてならないのです。それでは、「神という作業仮説」を捨てた世界での信仰とは何なのでしょうか。それが、今、私が自分に問うている問題です。
*太字は引用者。数カ所、改行して転載

 一信徒として、当事者として、被災直後の率直な「迷い」が表現されている点が胸に響いた。ここで「ボンヘッファーの道」と言われているのは、ヒトラー暗殺計画に加わって処刑されたドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーの『獄中書簡』による「神の前で、神と共に、神なしに生きる」という姿勢を指す。

 さらにこの後、キリスト新聞社も属する業界団体「キリスト教出版販売協会」の例会で同氏を招き話をうかがう機会があった(6月24日)。川端氏はその席上、教会員を探して600人余の遺体を見て回ったという体験から、上記のような思いに至った経緯を紹介した上で、こう述べた。

 神に見捨てられた命をイエスは生きた。神に見捨てられて生きることの中にこそ、神から与えられた道がある。

 なぜ地震が起きたのか、なぜ罪のない多くの人々が死なねばならなかったのか。説明はつかないが、そこで共に「おろおろ歩く」(宮沢賢治)イエスがおられる限り、私たちも共に生きるほかない。

 「摂理」や「みわざ」と都合よく説明できてしまうような神は、「答えがほしい」という人間が納得するために作り上げた「願望の産物」でしかない。

 さらに、これまで出会った何百人かの学生ボランティアは、ほとんどがキリスト教系の大学に通う学生だったが、「選挙には必ず行く」と言ったのはわずか十数人しかいなかったことを指摘した。

 政治に無関心なこの人たちが、石原知事や橋下知事を当選させている。

 人を苦しめているものと闘わなければ、苦しむ人と共に苦しむということにはならない。ボランティアは本当に涙が出るぐらいありがたいが、ただ同情するだけで問題は解決しない。現地で共に苦しんでくださるなら、苦しめているものへの怒りが伴わなければ……。

 震災にまつわる数々の報告記事を読みながら「何か足りない」と思っていたのは、まさにこの視点だった。直後の急を要する支援に加えて、長期的な視野として欠かせないもの。それが、目の前の事象を表面的に捉えるのではなく、構造的問題を見きわめ、具体的な解決の方法を探り、そのために可能な限りの努力を惜しまないこと。

 それこそが、「神への応答」として私たち信仰者の「すべきこと」ではないだろうか。選挙も、そのための手段に過ぎないが、現状ではよりふさわしい為政者を選ぶことも大事な支援の一つに違いないのだ。


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