平和運動は心を重ねるだけでよい

「平和運動」

行動が必要だという人もいるが、

わかりやすいプロテスト的行動は本当に必要なのか?

対立が生まれるだけなのではないか?

と、頭の中が冷静な私は解をそう導き出す。


私は戦うことは、得意ではない。

基本、放っておくか、その場にいなくなる。

小さい時から、もし、戦うとすれば、静かな戦い方をしていたように思う。

「できるだけ、対立を避ける」

きいてあげられる範囲で

対立する考えの相手の要求を調和のために、きいてあげる」

「違うと思えば、心からの服従は絶対しない!」

こういう幼心の生き方への決意は、

今もなお私の道しるべとなって、誘導してくれている。


「社会的弱者におかれている人たちへの救いは、

本当に救いになっているのか?」


ある平和運動家の子どもたちへの祈り

私の子どもたちへの祈りは、

真逆といっていいほどの方向性を感じはじめている。


どういうことかというと、

ある平和グループの人たちは、

社会的弱者の立場をいつも外側から眺めて、

自分はいつも安全圏に身を置きながら、

自分の勝手な「かわいそう」な子どもたち

いろんな方法で現実化しようとしている。

それでありながら、

案外、自分は幾ばくか人道的なことをしてると得意になっている

自分がいざ、そういう理不尽な立場になった場合、

いとも簡単に自分だけの救いの道を求めて、

誰かに濁りのエネルギーを押し付けてしまっているのを

私は意図せず、その声高の平和グループの人たちの中に発見してしまう。


それが人間ならではの、弱さなのだ。

それも、私は知っている。


私は、天空と繋がる「魂」とも「心」とも呼べるエネルギーの送受信機と、

地球に降り立つために、

最適化のボディースーツの肉体と、

制限時間が決まっている「命」は与えられてた。


戦時中とも呼べる「命からがら」生き残った私。


外側からのぞき見する安穏とした者たちが捕らえる「子どもたち」は

みんな純粋そうだけに見えるだろう。


でも、

渦中の私は、子どもだからといって、

生後数年で大人なみに「純粋さ」をすっかり

失ってしまう子たちも少なくないことを知っている。

元々、天空とつながる「心」をほとんど持っていない子どもがいる

ことも知っている。


それでも、大人になった今から思い浮かべると、

子どもたちは

「純粋」に何かきれいな世界を「素直」に信じることができていた

という事実は、確かにそうなのだ。


外側から眺める「平和そのものを作りだそうとするのではなく」

「平和になればいいなと実は反対側を実現する」浅知恵者たちの

「かわいそうな子どもたち」の一人、

それが、「わたし」なのだ


そして、私は大人になることに成功したからこそ、

外側から眺める平和主義者より、

より平和的で理知的だと自分のことを分析する。


対立エネルギーの渦中の子どもたちの一部

純粋な心を持っている子たちが求めていることと、

外側の平和運動家たちの欲求と一致していないと私は感じています。


私たちのために、救うといいながら、

対立エネルギーに燃料を注ぐとは、どういうつもりなのか?」


本当にほしいのは

物質的なことも肉体がある以上もちろんそうだけれど、

心の平和、信じられる明日や仲間。そういうものです。」


「そして、平和運動家たちの温かい心とその行動なのです。」


そういう感覚や言葉を知っているのは、

私しかできない仕事の一つだと思っている。


それを自分のペースで形にしていく。

私は仲間だけのためだけに生きていない。

私は私の人生を尊重します。)


私のプレゼントのリボンはいつほどかれるかなどは、

天空に任せておくとして、

子どもたちへの私の祈りこそ、

甘やかさだけの平和運動家の祈りと違う、

本当の祈りだとここに、はっきりと書いておくことにする。


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