【幼稚園児の哲学的B面】

私は幼稚園児の頃、浮世離れレベルに「ぼんやり」した子だった。
掛け値なしに「ぼーーー」っとした子だった。
殊に手際よく準備を済ませないといけない朝、それも登園準備に母は手を焼いていた。

朝、目が覚めて起きたら、
「~~して!」と言われるまでお布団で「ぼーーー」。
やっとご飯を食べだしたと思ったら、
お茶碗と箸を握ったまま「ぼーーー」。

「こらっ! ご飯を口に入れなさい!」

一口ご飯をすくって口に入れたまま「ぼーーー」。

「口を動かしなさいっっ!」

「・・・ぼーーー・・・もぐ・・も・・・」

「時計の針がここに来るまでに終わらせなさいよ!」

「・・・・・」

一事が万事この様な状態だったので相当手古摺らせたのだろう、
未だにこの時の話を持ち出して「大変だったわあ」と言う。

大人になった今、当時のことはハッキリ覚えていて、
「哲学していたのだ」と冗談交じりに言うけど、実際はあながち冗談でもない。

目に何か景色が入ってきた途端、思考が始まるのだ。
母が青いブラウスを着ている。
青とは何だろう?
海の青は水だけど、水は透明じゃないのか?
透明が集合すると青なのか?
それではあのブラウスは透明の集合か?
ブラウスは水が集合しているのか?
水が集合するといつも青いか?
いや、池の水は・・・「ご飯食べなさいっ!」
思考中断である。

も・・ぐ・・・もぐ・・・

ご飯の味がする。
みそ汁はみそ汁の味がする。
味とは何か?
なぜ甘かったり酸っぱかったりするのか?
食べ物以外も味がするのか?
そもそも食べ物とは何ぞや?
食べられないとはどういうことだ?
口に入る時点で食べ物・・・「口を動かしなさいっっ!」

「時計の針がここに来るまでに終わらせなさいよ!」

時計の針はいつ動くのか?
じっと見ていても動いているのはわからないが、
確かに少しずつ動いている様だ。
これを見定めるにはどうすればよいのか?
例えば、時計を大きくしたらどうだろう?
針を大きくしたら動く様子もよくわかるようになるか?
しかし、針を大きくして家より大きな針になったら、
針しか見えなくなるんじゃないのか?
それより巨大だと動いた時にわかりやすくなるか?
さらに巨大にしていくと、わかりやすくなくなる気がする。
動きがわからない大きさでは意味がないから、
動きがわかる大きさには「適度」がある気がする。
「適度」とは何か?
だいたい適度・・・「幼稚園始まる時間だよっっ!!!」

こんな具合である。
引きずられるように幼稚園に連れていかれている間も、
時計の針はとがっているけど、とがっているとは何だ?
とがるものをどんどん尖らせたら針みたいになる。
針の先を大きくしたら丸く見えるか?
それをさらに尖らせて丸く見えなくなる時が来るのか?
・・・云々。

ぼーーーっとしている幼稚園児をあなどるなかれ。
・・・あ、今は哲学無しの「ぼーーー」が得意になりました。

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