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19+24(+2)=470(+α) 数ではなくて人を数える。[ ウエマツ君との対峙、私の中の。#0 ]

今日・2020年7月26日は、やまゆり園の事件から4年となる。
裁判は、植松氏が控訴取り下げをしたので刑が確定している。裁判が終わって何か解決したのだろうか。状況は良くなったのだろうか。

考え続ける上で、
それを少しずつでも記していこうと思う。
今回は本題に入る前の第0回です。

まずはじめに、19を指折り数える。
読んでくれる方も、大事なことなので流さずしっかり数えて欲しいです。

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19

もちろんこの19とは、やまゆり園で命を奪われてしまった人たちの数で。

さらに、24を指折り数える。
繰り返すけど、大事なことなので流さずしっかり数えて欲しいです。

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24

この24とは、襲われながらも一命を取り留めた利用者の方々の数で。(更に職員2名が負傷している。)

匿名報道ゆえに、亡くなられた美帆さんと重傷を負った尾野一矢さん(及び一部取材では名前の出ていた男性Mさん、女性Nさん)を除いては、名前も分からず数字や記号で捉えられかねない現状がある。

たとえばこの19を、自分の周りの人の名前を挙げ顔を思い浮かべながら指折り数えてみて欲しい。
自分も浮かべてみる。(順番に意味はない)

1 パートナー
2 父
3 母
4 兄
5 兄嫁
6 甥
7 姪
8 友人C
9 友人B
10 友人D
11 同僚H
12 同僚K
13 上司Y
14 友人I
15 友人K
16 友人N
17 友人k
18 友人O
19 友人A

これらの周りの人たちが、
一度に命を奪われることを想像する。

それだけではなく、
加えて他に24人も襲われたことを想像する。
あの人も、この人も。

それに巻き込まれて、
そこに関係していた人も(心身に)傷を負うことも想像する。

これが4年前に、ひとつの場所で起こったこと。
そしてやまゆり園では、部屋が施錠されていて助かった人たちもいる。植松氏が衆院議長に宛てた手紙では他施設込みで"470名を抹殺できる"と記されていた…。

だからこの事件を語る時に、一部メディアであるような「19人殺害事件」では矮小化されてしまう。「45人殺傷事件」でも零れ落ちてしまうものがある、と踏まえつつ考えたい。

しかし、想像などでは全然足りないはずで。
それでも本人の痛み、家族の苦しみ、周囲の衝撃に思いを馳せること。何より、本人にも周囲にも、それぞれの暮らしがあったこと。そこを最低限の出発点としたい。数ではなくて人を数える。

4年前のそこにあったのは数字や記号でなく、顔も名前も個性もあるそれぞれの暮らし、それぞれの脈動。
場合によっては、奪われたのは私だったかもしれない。あなただったかもしれない。

そして、
奪ったのも私だったかもしれない。あなただったかもしれない。

「え?急に何?」と思われただろうか。

私には、あなたには、"優生思想"のようなものが全く無いと断言出来るだろうか。誰かを排除したくなる気持ちが全く無いと言い切れるだろうか。

(自分を含め)「そんなもの私には無い!!」と言い切れてしまうとしたら、それはそれで逆に危うさを覚えてしまうのだ。

人間は独りでは生きて行けないし、関係性の中で産まれ生きて死んでゆく。だから、環境や関係性によっては誰にでも起こり得るものなのではないかと。

だからこの事件は、植松氏という"特別な人"が起こした"特別な事件"と捉え終わらせてしまっては、何も解決しないと思う。
やまゆり園も然りで、"特別な施設"の"特別な事件"で終わらせてはいけない。

もちろん各々の責任があるのは大前提としつつ、ではそういう個人の行動が生まれた背景は何なのか。そういう施設が出来た背景は何なのか。と、個々への帰責だけでなく、環境・構造的な原因も探り変えていかなければ、臭い物にフタをしただけでは、また繰り返されかねないと危惧するのだ。

考え続ける。

続きは、また。

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