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3年前、ラーメン屋のティッシュを集めて「共感」を展示しようとしてたことを思い出した。

カフェで窓際の席に座って、通りを眺めていたら、ぼんやりパブリックについて考えていて、そしたらふと3年前に関わっていたプロジェクトについて思い出したので、少し書いてみようと思う。

閉店までの残り20分で、できるだけ書いてみる。


3年前、東大の大学院に入ってまもない頃、「ラーメン屋のティッシュをひたすら集める」というプロジェクトをしていた。

もぐりで受講していたとある他大学の授業で、そこにはなんともおもしろい方たちが集まっていて、「共感」をテーマに毎回アカデミアだけじゃないいろんな先生方が来てくれた。

その授業について書き出すともうあと3時間あっても足りないので内容は割愛して、一見あっちこっちいったりして見えるその授業は、「共感」というキーワードでひとつの糸になっていた。

そしてある時、その担当の先生が「展示をしよう」ということになって(あまりはっきり経緯を覚えていない・・)、「共感(コモンズ)」をテーマに展示をしようということになった。

わたしはコアの企画会議には参加していなかったので、どうやってその流れになったのかはわからないけれど、たしか「共感」を感じた瞬間として、ある友達が「ラーメン屋のティッシュ」をあげた。

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その子の感性がとても素敵で、一部だけ抜き出してみる。

わたしたちはラーメンをたべるとき何気なくティッシュを使っていますが、隣の席にも同じラーメンを食べて同じティッシュを使っている人がいます。ラーメン、ティッシュ、居合わせた客、店主。ティッシュを使うことによってわたしたちの存在が現れるとしたら、そこではどんなことが起きているのでしょうか。



そして、これが採用され、わたしは下北沢のラーメン屋で、2つほどティッシュを集めた。

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方法はすごく簡単で、ラーメン屋に入って、ラーメンを食べて、最後に「このティッシュくれませんか」とお願いする。もちろん、代わりになるティッシュと交換で。

大体変な顔をされるけれど、みなさん譲ってくれた。

そして、こんな展示になった。

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ちゃんとエピソードも書いた。

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(箱が使い回すタイプだったので、中身だけもらってきた)


わたしはラーメンを食べて、ティッシュを集めただけだったけれど、コアメンバーのみなさんがすごくすごく頑張ってくださったおかげで、とてもあったかい空間になっていた。
(建築学科の先輩が、すごくすごく尽力してくださっていた)

3年たった今、もし今また同じような「共感」をテーマにするなら、何を集めるだろう。
そもそも何かを「集める」んだろうか。

3年前に曖昧だった境界はすごくすごく存在感を持つようになってしまって、いま集めるならティッシュではなく、この透明のプレートだろうか。


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この一年で、「境界」というものに対して、すごく敏感になったと思う。
同時に、いかにつながるかというのも、大きなテーマになった。

むしろいまこの境界は、コモンズを感じさせるものじゃなくて、分断を感じさせるものになっているのかも。

ただ、これだけ世界中がおなじ問題に対して苦しんで、同じような寂しさや足りなさを持っていることなんてそうそうなくて、

そういう意味では、いまはすごく「共感」の時代なのかもしれない。

身体や場所は簡単に共有できなくなって、でも時間や心は共有しやすくなったのかもしれない。

ただ、「共有」できることと「共感」できることの間の段差が、大きくなったようにも思う。


そろそろ閉店なので、とりとめのない文章はここで終わりにします。

でも、あの時、すごく楽しかったなあ。
授業のあと、誰がモグリで誰が先生かよくわからないままみんなで居酒屋に行って、問いにもならないような問いをみんなでわいわい語るのはとても楽しかった。

なんか、すごく、大切だった。

あの時のみなさんにまた会いたいです。

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