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【ライブ】 ドラムデュオ〈ダダリズム〉。京都のライブハウス「外 soto」におけるライブ

(写真=Arts Support Kansaiより)

以下の稿は
《ケンジルビエン(KEN汁ビエン)Kenjiru Bien〜異能の身体〜》
の後編として書かれています。

スリーピースバンド〈空間現代〉の運営する京都市左京区鹿ケ谷法然院西町にあるライブスハウス「外 soto」
彼らが作り出したこのライブハウスは、関西圏に新しい音楽シーンを引き込むエキサイティングな場として注目を集めている。
ドラムデュオ〈ダダリズム〉の「外 soto」での初ライブは、2016年9月から始まった「外 soto」オープニングシリーズの一環である。2017年2月19日に行われた〈ダダリズム〉と〈空間現代〉のライブは、オープニングシリーズでの2日間の音作りの経験から、彼らの音が鳴るということの体験としてのライブでもあった。

ドラムデュオ〈ダダリズム〉とは、岡本右左無と山田厭世観で結成された音楽ユニット。以下は、この日のライブの印象を記したものである。

〈ダダリズム〉の音楽はステーヴ・ライヒ(1936年生まれ。ミニマル・ミュージックを代表するアメリカの作曲家。個人的には『ピアノ・フェイズPiano Phase』『ディファレント・トレインズDifferent Trains』が好き)に近似している。とりあえずはそう言ってみる。きっと、そうだよね、と納得する人もいるだろう……〈ダダリズム〉は否定するかもしれないけれど……。わたしのライヒ理解は専門的に分析した結果ではないから軸がズレているかもしれない。そして、彼らの音楽がライヒに近似しているというわたしの見解も、それ以上にズレ(Phase)ているかもしれない…少し言葉遊びが入っている…。それは、〈ダダリズム〉の音楽には、ライヒにない、音の熱量があるからだ。その熱量とは、彼らの音の持つ破壊力としてのダダイスム・政治性であり、ダダという打音の強度(=熱)のリズムのことである。

〈ダダリズム〉の音楽
そこにはひとつの数列の連続した反復があり、反復されることにより数列はしだいに〝ほどけ〟、新しい数列になる。数列とは、数の単なる連なりではない。連なりの中に厳格な規則がなければ数列とは言わない。そうでなければ数の羅列に過ぎない。とすれば、ほどけた数列は厳密には数列ではなく、単なる数の並びになってしまう。だが、それでもそれを数列と名づけたい。というのは、ここで数列を音列と言いかえれば言葉の意味の厳密性を問わなくてすむのだけれど、たとえ〝ほどけ〟たとしても、数列におけるの禁欲性を、〈ダダリズム〉の発生する音には課したいからだ。

高校の数学の時間を思い出したくない方もいるかもしれないが、数列の初歩的なことを復習させていただきたい。
数列には中項という概念がある。中項とは、連続する3つの数の2番目の数のことである。
たとえば、3、6、12、…という2倍の比を持つ等比数列の場合、3を第1項、6を第2項、12を第3項と名づけると、第2項の6を第1項3と第3項12の中項という。このとき、中項は第1項と第3項とのつなぎであると同時に、第3項は第1項と中項に従属するという、主従の力学が支配関係の中に存在する。しかも、第3項が何であるかにより、第1項と中項との関係も違ってくるから、これら3つの項は自立しながらも、ある種のゆらぎのような力学が働いており、三位一体である。

はじめの3つの音の連なりにより決定される音楽を考えてみる。そして3連の音から第4の音が発生し、この生成の連鎖により数列としてひとつの禁欲的な連なり=メロディーが形成される。そして、数列としてのメロディーが〝ほどけ〟はじめる。この〝ほどけ〟とは、3つの音による音楽の決定という関係がほどけることである。この〝ほどけ〟により、音の連なりという水流に変化が起きる。奇妙な論を呈すると思われるかもしれないのだが、〈ダダリズム〉の音楽はこのようにあると言ってもいいのではないかと思う。

さて、〝ほどけ〟なのだが、これは、〈ダダリズム〉の奏者である二者(岡本右左無、山田厭世観)が互いに従順であれば起こらない。つまり同型反復の持続である。しかし、どちらかの奏者が相手に挑発を仕掛けることにより〝ほどけ〟が生じる。数列の水流に指を差し入れるのである。このとき、不意を突くような方向へと誘導することもあれば、ヤニス・クセナキス(1922〜2001、現代数学を用いた作曲法で知られるギリシャ系フランス人の現代音楽作曲家、建築家)のような統計力学的リズム形成として、強度という、観衆を興奮へと導く事態を生じさせることもある。その時、二者の発する数列の、ある特定の音が共振することでメロディーを超えたところにリズムとも思える粒立つ音素が生じる。その音素も、やがては二者の力学とも思える結びつきにより再びほどけ、新たなリズムを生み出すことになる。その運動はあたかも完備性のような構造をなし、二者の結びつきは二者の新たな結びつきを生み出すという永久運動でもある。
「音」という用語なのだが、〈ダダリズム〉の場合、別な用語に置換可能である。たとえば「持続」「リズム」「ビート」と置換できる。しかも置換することにより、彼らはエートスとしての持続と、パトス的な叫びのような衝突を発生させる。

彼らの音楽、あるいはライブに熱量を感じるのは、音素にとどまらず、持続リズムビートすらもほどけてゆく熱狂的な事態と遭遇するためである。これは、ライヒと大きく違う、新たなライブパフォーマンスの潮流、ニューウェーブに違いないだろう。

(日曜映画批評家:衣川正和🌱kinugawa)

ライブハウス「外 soto」のweb

YouTubeにダダリズムのパフォーマンスがあったので添付します。

文中で言及した作曲家スティーヴ・ライヒ関連(モアレ)の記事


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