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【映画評】 アグニェシュカ・スモチンスカ『ゆれる人魚』ダークでグロテスクでパンクで官能的

 水にはなにゆえこんなにも死とエロスが漂っているのだろう。
 本作品に限らず、例えばイエジー・スコリモフスキ『早春』の水のイメージも死とエロスに満たされていた。確かフランシス・ポンジュは、水は「低位に位置している」といった趣旨のこと、いわば低位にとどまるがゆえの上昇の否定、生成にもつながる上昇などありえないかのように述べていた。水はわたしたちの生命維持に欠くことのできないものなのだが、それが水面という表層として現れた途端、その下層である見えない水面下に恐怖の念を抱く。水面という表層と水面下という深さの下層。どちらも水にすぎないなのだが、二種の層の現れが、「低位に位置している」水を、生成という湧出へと変位させるのだ。
 下層ではなにが起きているか。それは死後の世界を想像できないのと同じ程度に、わたしたちには恐怖としてある。ベルナノスなら「生命が体の下から逃げていく」のを感じ、鼻孔にまぎれもない死の匂いが昇るのを見てとるだろう。水が水面を形成しなければこのような水の下部を思うことはないだろうし、『ゆれる人魚』における人魚姉妹の水面への登場を見るのでなければ、人間・ミーテクに裏切られた姉・シルバーが泡となって消えることも、妹・ゴールデンがミーテクを食い殺すこともなかったろう。
 そうなのだ、『ゆれる人魚』は、ヤン・シュヴァンクマイエル『オテサーネク』のようにダークでグロテスク、ギャスパー・ノエのようにパンクで官能的なのだ。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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