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【映画評】 ステファン・カース『エトガル・ケレット ホントの話』 shotならぬshoot

エトガル・ケレット

 エドガル・ケレットにとり〈物語る〉とは動詞〈shoot〉と同義語なのだろうね。わたしも同感だよ。
 言うまでもないことだけど、映画であれ小説であれ、物語とは、ショット(shot)の積み重ねで立ち現れる時間のことだ。
 時間は本来的に連続と思われているのだが、映画も小説も、アプリオリに連続性が保障されているわけではない。ショットとして現すのでなければ、時間の連続性は現れない。ショットが必要不可欠なのです。しかもショットとは、時間の暴力的な切断を前提とするのだから、これは命の切断でもある。だから、物語るには、自己に向けても他者に向けても拳銃の引き金を引くほどの覚悟を必要とするということなのだ。
 『エトガル・ケレット ホントの話』でいえば、イスラエルのイミグレーションでの、撮影スタッフであるケレットたちと審査官の、出国をめぐる会話(=事実に基づいたフィクション)がそのことを示している。ケレットたちの目的はshoot(=撮影する)だと言い、審査官はshoot(=撃つ)だと理解する。どちらが 真実(この用語も曖昧だなぁ)でどちらがフィクション(この用語も曖昧)なのかは問題ではない。物語はいつも二重性をまとっていて、対象を〈写しとる〉ことと〈撃つ〉ことの同時性の表出のことではないのか、とわたしは思うのだ。本作品は、そのことを、手仕事のように丁寧に、そしてユーモアを交えながら呈示しているから面白い。まるでケレットの作品を読んでいるかのような錯覚さえ覚えるのだ。こういったドキュメンタリーもあるのだね、と嬉しくなった。
 ステファン・カース(Stephane Kaas)は1984年生まれのオランダの監督のようだが、本作品が初の長編ドキュメンタリー作品。他の作品に、『Sister Crazy』(2010)、『Oriental Odyssey』(2016)、『Human Zoos』(2017)がある。Stephane Kaasでググってみたけれど、詳しい情報はないのが残念。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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