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終章 疑うことに目覚めたら | なぜあなたは騙されてしまうのか

・情報発信者の矜持

 
 これまで主に、誤った情報に騙される理由、与えられた情報の疑い方、情報を修正しがたい理由の3点について説明してきましたが、ここからはその先、疑うことを覚えた後にすべきことを私なりに提示します。

 そもそも、私が疑うことに目覚めたきっかけというのが、「ゆっくりゴシップちゃんねる」という投稿者の動画シリーズでした。その投稿者は主に政治や時事、メディア論などを扱った動画を制作されているのですが、この動画の特筆すべき点は情報源を明記していることです。確かに、専門書などで出典が明示されている場面は多く見かけますが、ゆっくりゴシップちゃんねるの場合は数多く存在するネット動画の一投稿者に過ぎません。情報源の信頼性については「ある程度」といったところですが、出典が紹介されている動画は私にとって初めての存在であり、情報とは何なのかについて深く考える契機となりました。また、この投稿者は動画の冒頭に「この動画を真に受けず より正確な情報は自分で調べてみて欲しい」という注意喚起を行うほど情報を自身で精査することを重視しているのですが、その代名詞と言えるのがこの投稿者の決まり文句である「何事も過信と鵜呑みは禁物」です。この言葉こそが私に夜明けをもたらした最たる要因であり、本記事もこの精神に則って筆を執っています。恐らくですが、この言葉の裏には、情報を発信する側として最低限の矜持が隠れているものと思われます。

 私はまえがきで夏目漱石の「月が綺麗ですね」の逸話について、創作の可能性が高いという見解を紹介しましたが、その根拠として『三省堂国語辞典』の編集委員も務める日本語学者の飯間浩明が投稿したツイートを挙げました。これは当該ツイートが参考文献の明示や適切な検証の上になされたものであると判断したからですが、可能であればツイッターを根拠としたくないというのも事実です。

 それでもツイートを参考文献に挙げたのは、逸話が創作である可能性について論じられた書籍が確認できなかったからです。この確認作業において、私は図書館のレファレンスサービス(必要な資料の検索および提供を行う業務)を利用したのですが、その際にレファレンスのプロである司書が、調査が難航するあまり頭を抱えたのです。そして、最後に提示されたのが2013年に岐阜県図書館で行われたレファレンス事例でした。その詳細には、「確かな根拠を示す資料を見つけることはできませんでした」という結論の後、この調査に用いられた文献が記されています。私が愕然としたのは、それらの文献のうち「月が綺麗ですね」の逸話に関する記述がなされているものがすべて、出典なしに逸話を取り上げているという点です[1]。

 もし逸話が創作であるというのが事実であれば、我々があらゆる場所で耳にするエピソードはどこかの誰かによる思いつきや捏造に過ぎないということになり、様々な書籍であたかも事実のように述べられているということになります。これは逸話が創作であると仮定した場合の話ですが、このように、情報の発信者が不用意な発言をすることで、世間にその発言が流布し、書籍が誤情報で汚染されることもないわけではないのです。

 誤情報がもたらす不利益は本書全般を通して述べたとおりですが、情報の発信者はこのような事態を招かないためにも細心の注意を払って発信しなければならないのです。そして、先述のレファレンス事例において問題視すべき点が、出典なしに逸話を事実のように取り上げた文献の存在です。文献を公の場に出すような発信のプロが、なぜ信憑性の低い逸話をさも事実のように述べてしまったのでしょうか。周知の事実だからと油断した、綿密な調査が面倒になったなど、様々な理由が考えられますが、我々が肝に銘じておかなければならないのは、発信者の立場に慣れてしまうと情報を疑い忘れることがあるということです。この情報社会においては、一般人であってもSNSなどを利用して高頻度に情報を発信しています。そのような中で、せっかく疑うことに目覚めたにもかかわらず考えることを疎かにすれば、指先ひとつでインターネットを誤情報で汚してしまいかねないのです。それゆえ、疑うことに目覚めた後、そのような事態を引き起こさないためにも、常に初心を留めておく必要があるのです。


・他人に意見を受け入れてもらうには?


 ただ、疑うことにこだわるあまり、他者に対して押しつけがましい態度になるのも考えものです。疑うことを実践している者の目に、まだ疑うことに目覚めていない者の行動は滑稽に映るかもしれません。だからといって、自分が説得して行動を改めさせようと思い立っても、大抵の場合は失敗します。なぜなら、その者は疑うことの目覚めていないため、自身の考え方にどのような欠陥が存在し、なぜ信念を修正できないかを知らず、自身の考え方に固執してしまう傾向が強いからです。そもそも、説得を素直に受け入れられるようであればすでに疑うことに目覚めている場合がほとんどでしょうし、説得できるほどに自身の考え方が真っ当だと思い込んでいる点も自信過剰を疑った方が良いでしょう。

 そうは言っても、困っている人や騙されそうな人を救いたいという気持ちは、我々の多くが持ち合わせているものでしょう。誰かを説得する行為は、そのような気持ちに由来するとも言えます。それでは、我々は説得によって他者の行動を変えることができないのでしょうか。

 説得のためのヒントとして、ここでは第5章の最後に登場した自己愛性パーソナリティ障害を例にとって考えていくことにします。この疾患の中心的な特徴は自己誇大視であり、自身を特別視することにより傲慢で尊大な態度をとる、注目や賞賛を過剰に求める、自己の目的を達成するためには他者を利用するなどの行動に出る傾向があります[2]。

 また、この疾患は自己愛が脆弱なために起こるものと考えられており、弱い自己愛およびそれを護ろうとする反応のために前述の症状が起こるものと説明されます[3]。精神科領域では治療として様々な心理療法が行われることがありますが、いずれもデータが乏しく、治療ガイドラインも存在しません[4]。つまり、治療法が確立されていないのです。そのため、患者が生活に支障をきたして精神科を受診しても、治療に難航することが多いというのも実情です。

 したがって、この疾患の患者、あるいは疑いのある者に接する側が配慮をすることで患者が生活しやすくなるということが考えられますが、実際には自信過剰や傲慢さから疎まれてしまうことが多いようです。特に、ビジネスの場で問題となるのが、自己愛性パーソナリティ障害の傾向がある者が他者の意見や要求をなかなか聞き入れないという点です。この点について以前、精神科医に伺ったところ、そういった方に意見する場合には工夫が必要であるとのことでした。その工夫というのが、「丸め込むような話術」です。

 例えば、疾患の傾向がある者に計画Aを提案したところ、その対抗案である計画Bの方が成功する見込みが大きいと拒否されたとします。この時、計画Aを推進するために、計画Bのデメリットではなく、その者が見えていないであろう計画Aのメリットを提案するのです。自己愛性パーソナリティ障害の傾向がある場合、自尊心を傷つけないことが最重要課題です。そのため、以上の例のように、否定ではなく肯定を用いて納得させることがよりよい議論につながります。実は、こうした工夫が有効なのは、決して自己愛性パーソナリティ障害だけではありません。

 
 1998年、アンドリュー・ウェイクフィールドという医師らの研究グループにより、三種混合ワクチン(麻疹、おたふく風邪、風疹に対するワクチン)を接種すると自閉症のリスクが高まるという論文が発表されました。しかし、その後の調査によって三種混合ワクチンと自閉症の関係性は否定され、先の論文も撤回されました。

 しかし、アメリカでは同研究によりワクチンの副反応を恐れる者が後を絶たず、2014年には前年の3倍もの感染者数を計上する事態に陥りました。ここでイリノイ大学のザカリー・ホーンらは、ワクチン忌避を解消するために、副反応を否定するというそれまでのキャンペーンとは異なる手法を用いました。それが、ワクチン接種により麻疹、おたふく風邪、風疹に罹患するリスクを減少させることができるという事実を強調する手法です。もしかすると、何をいまさら、と思われるかもしれません。しかし、この手法が大きな効果をもたらしたのです[5]。我々の身近な場所でも、少しの工夫でヒット商品となった便利グッズがあるように、思いつきそうで思いつかないアイデアが大きな変化をもたらすこともあるのです。

 ワクチンの例では、副反応の存在を信じている者に副反応の存在を否定する方法を用いると、認知的不協和により情報の受け入れを拒否すると考えられます。その一方、ワクチン接種のメリットを前面に押し出す手法では、副反応とは異なるアプローチで訴求しているため、認知的不協和に陥らず、結果として情報を受け入れてもらえると考えられます。そして、三種混合ワクチンの接種推進キャンペーンにおける図式は、先述の自己愛性パーソナリティ障害における図式とほとんど一致しているのです。つまり、他者を説得する際には、相手の信念に反論しないと同時に、その信念に反する意見を肯定することで認識の改善を誘導することが有効な説得手段と言えるのではないでしょうか。ただ、改めて強調しておきますが、他者を説き伏せる行為は推奨できず、もし説得を試みる場合には、意見はそう聞き入れられるものではないという認識の上で行ってください。


・役に立つ知識とは何か

 
 最後に私がお伝えしたいのは、どのように知識を収集するべきかについてです。私はクイズプレイヤーとして知識の涵養に努めてきましたが、結局のところ、最も有用なのは書籍であるように思われます。インターネットやメディアから情報を収集することもありますが、こうした経路で入手した情報には虚偽も多く、選別に多大な労力を要します。その一方、書籍の場合はその分野の専門家が著していることが多く、そうした書籍は基本的に信憑性が高いものです。したがって、情報の選別にかける労力という点では、書籍は情報源として優れていると言えるでしょう(もちろん、「月が綺麗ですね」の例のようにでたらめを書いている場合もありますが)。

 そんな書籍に関してですが、書店でたびたび読書術を扱った書籍を目にします。そのような書籍には「読書は目的を明確にして行うべき」という旨の記述が多く見られます。果たして、この言説は妥当と言えるのでしょうか。慶応義塾大学の第2代塾長を務めた小泉信三は、著書『読書論』の中で以下のように述べています[6]。

 右から左へ、すぐ役に立つということをいえば、本の形をしたもので、例えば電話帳や旅行案内に及ぶものはない。(中略)料理をするために料理法の本を読み、鶏や豚を飼うために養鶏法養豚法の本を読むなどはややこれに近い。この種の書籍、この種の読書の例をあげれば数限りないことであろう。しかしこの種の本は、右から左へすぐ役には立つけれども、立ってしまえばそれ切りで、あとには何ものこらない。(中略)すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなるとは至言である。同様の意味において、すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本であるといえる。人を眼界広き思想の山頂に登らしめ、精神を飛翔せしめ、人に思索と省察とを促して、人類の運命に影響を与えてきた古典というものは、右にいう卑近の意味では、むしろ役に立たない本であろう。しかしこの、すぐには役に立たない本によって、今日まで人間の精神は養われ、人類の文化は進められて来たのである[7]。

 確かに、目的を決めて読まねばならない書籍は確実に存在します。受験参考書は希望する学校に入学するためや資格を得るため、ひいてはその後の人生のために読むものであり、釣りやゴルフなど趣味に関する書籍は、そのまま趣味の技術向上につながります。しかし、大抵の書籍は目的を決めて読むことなど不可能ではないでしょうか。その分野に関わる者でもないのに、哲学や社会学の書籍を読んだところで、得られる利益が予測できるでしょうか。また、利益が明確でない書籍は読むに値しないのでしょうか。
 
 知識というものは概して、予想だにしない状況で実力を発揮します。私は幼稚園時代から道路地図を愛読していたほどの地理好きで、日本の市町村程度であれば大体の場所を把握しています。その知識がどこで役に立つのかといえば、例えば初対面の人物と話すときです。我々には誰しも故郷が存在し、我々の大半が郷土愛を抱いています。そのため、初対面で出身地を尋ねた折、出身地に関する知識を示すことで、相手がもつ郷土愛に寄り添うことができます。その結果、初対面の相手と打ち解けやすくなり、良好な関係の構築にもつながっていきます。近所の顔見知りと駆けずり回っていた頃に興味本位で得た知識が、遠く離れた地から訪れた客との縁を取り持ってくれているのです。

 その他にも、思いがけず知識が役に立つ場面を挙げればきりがありません。試験問題を解く際に知識が役に立った機会は数え切れませんし、物事を考える際に様々な分野の知識を動員して新しい発見に至ることもあります。これはまさに、小泉信三が述べた読書のメリットそのものと言えるでしょう。科学が急速に発展する現代において、「すぐには役に立たない本」は古典に限らず、先進技術や革命的な発見に関する書籍も含まれるとは思いますが、すぐには役に立たない書籍によって我々の営みは前進していくのでしょう。

 そして、私にはまだ、目的を決めずに書籍を読むメリットが残されているようにも思われます。それが、知的好奇心の満足です。人間が誰しも知的好奇心を抱いていることは言うまでもありませんが、だからこそクイズ番組がエンターテインメントとして成立しており、知識自慢の者が知識が豊富なだけで尊敬されるのではないでしょうか。

 知的好奇心を満たすためには当然ながら新しい情報をインプットする必要がありますが、教科書や参考書を読む気がそうそう起きないように、目的が明確化された読書の場合はたいてい気乗りしないものです。その一方、目的を決めない読書から得られる情報は意外性に溢れていることも多く、知的な欲求を効率的に満たすことができるものです。そして、知的好奇心を満たす行為はそれだけに終始せず、我々を高みへと連れていってくれるのです。

 ここまで長々と、目的を明確化しない読書のメリットについて述べてきましたが、これらのメリットは、偉大な先達の言葉を借りて一言に集約できるでしょう。

そう、「知識は力なり」なのです。


・参考文献

[1] レファレンス協同データベース レファレンス事例詳細「夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したとされる根拠となる文献はないか。」、2013年7月30日 事例作成、2022年4月25日閲覧
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000160743
[2] 林直樹 著、『人格障害の臨床評価と治療』第2刷、金剛出版、2003、p.27
[3] 林直樹 著、『人格障害の臨床評価と治療』第2刷、金剛出版、2003、p.151
[4] Eve Caligor, Kenneth N. Levy, Frank E. Yeomans, “Narcissistic Personality Disorder: Diagnostic and Clinical Challenges”, The American Journal of Psychiatry, 2015 May;172(5):415-22.
[5] ターリー・シャロット 著、上原直子 訳、『事実はなぜ人の意見を変えられないのか 説得力と影響力の科学』、白揚社、2019、p.39-42
[6] 慶應義塾大学「歴代の塾長」、2022年4月26日閲覧
https://www.keio.ac.jp/ja/about/president/history.html
[7] 小泉信三 著、『読書論』第20刷、岩波新書、1964、p.8-9,12


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