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酔ってゐなければならない。

少し前に代官山蔦屋で偶然出会った小冊子。
表紙に記されていた詩の引用が目に飛び込んできて、思わず手に取った。


「酒に酔う」ことを考える時、私はいつも複雑な思いをめぐらせる。


シンガポールを旅行中、体に纏わりつくような暑さの中、空腹に耐えかねて地元の小さな料理店に入った。

声も出ないほど喉がカラカラな私の目の前にドン、と置かれたタイガービールの瓶。
ビールって苦いから苦手なんだよだな、と躊躇する余裕もなく、ゴクリと喉をならして一気に流し込む。

次の瞬間、サーっと通り過ぎていくとてつもない爽快感に、目を白黒させた。
"喉越し"という言葉の意味をこれほどまでに強く実感できたことに感激した。


大学の研修でフランスのアルザスを訪れた。

こってりとしたホワイトソースの郷土料理が運ばれてくると、間髪入れずに、問答無用で、蜂蜜のような色をした白ワインが目の前のグラスへと注がれる。

とろりと濃厚で艶やかな甘みがありながら、飲み込むと同時に口の中の脂っぽさを洗い流してくれた。

つい先ほど見てきた葡萄畑からとれたその土地の有名なワインだ。"マリアージュ"とはこういうことかと、夢中で楽しんだ。


片想いしていた先輩と、やっとのことで食事デートにこぎつけた。
お腹を満たした後に連れて行ってくれた薄暗くて渋いバー。

ここはウイスキーの種類が豊富なんだ、実は最近ハマってて。

運動部のエースで、安い居酒屋での飲み会では率先して盛り上げ役になりビール瓶を豪快に空け続けるような先輩が、照れ臭そうに声を潜めてそんなことを言う。皆の知らない人気者の意外な素顔を見せてくれたことに、胸が高鳴る。

味見させてもらったスコッチは、正直薬みたいな味だな、としか思わなかったけれど、大人の味がします、と微笑んでドキドキしながらグラスを彼の元へ返した。帰ったらウイスキーの種類や名前を全部覚えよう、と思った。


家の近所に、日本一日本酒の品揃えがあると有名な居酒屋があった。つまみも美味しくて、家族で足繁く通った。

甘味はあるけどスッキリとした後味のもの、などと希望を告げると、ぴったりの日本酒を選んでくれる。

お気に入りは発泡清酒で、運がいいと開栓イベントが行われることがある。店員さんがいそいそと床に新聞紙を敷き、大きなタライの中に瓶を置く。栓を抜くと、勢いよく噴き上がる酒!1mくらいはあるその噴水のテッペンを桶で受け、おさまったところで店の客全員に振る舞われる。

父と語らいながら飲み比べを楽しみ尽くす頃には、日本酒の奥深さに魅了されていた。


私が好きなのはお酒そのものの味であり、料理との相性であり、飲みながら親しい人と語り合う空間の心地よさである。

だから飲み会は大好きだ。何か大きなイベントを達成した後の打ち上げは必ず参加する。打ち上げまでがセット、もはや打ち上げがメインと言ってのけるほどだ。

ただ、その場で「酔うのか」と聞かれたら、本当に酔ったことはないかもしれない。酔わないようにセーブしている、という方が正しい。

それは、酔っぱらっている自分を人に見られるのが恐ろしいからだ。

酔っぱらいが、苦手なのだ。

声が大きくなり支離滅裂な話を繰り返し、赤ら顔で千鳥足、トイレを汚し、人目も憚らず眠りこけ、女性は男性の肩にしなだれがかり、男性はテーブルの下で女性の腿を触り…
他人に迷惑をかける。

そんな、その人がその人でなくなってしまうような、欲望を剥き出しにしたような姿が醜くて仕方ないと感じてしまう。

だから、自分は絶対にそうはなるまいぞ、と身構える。
いつもと変わらない姿を貫くことこそ正しいと考えている。

でも実は、理性をなくし記憶を飛ばすほど酔える人が心底羨ましい。
お酒の力を借りてでも、相手に自分を見せられる人が羨ましい。

強い体質ではあるのか、顔が少しも赤くならないし、気分が上下することもない。定量を超えると体が重くなって強烈な睡魔に襲われるだけだ。

いくら飲んでも飾らない本性を曝け出すことができない自分を不甲斐なく感じる。
もちろん、親しい人との楽しい会ならリラックスして笑い転げるし、たとえどんな飲み会でもその場を笑顔で盛り上げる努力をする。それでも道化を演じる勇気のない私は、酔っぱらいと同等のテンションまでどうしても上げることができない。

気のおけない友人や恋人との時間ならば信頼してガードを解くこともできるかと思い、旅行先などで今日は何としても限界まで飲むぞ、宣言し、意識して一気にペースを早め量を増やしたこともある。

それでもやはり、最後まで恥じらいやプライドを捨て切ることはできなかった。1人で密かに絶望した。


そんな臆病な自分は、酒以外のものにも酔うことができていないように思う。

趣味や夢、突き詰めたいものに対しては我を忘れてのめり込むが、どこかで突然ストッパーがかかってしまう。上には上がいる、自分は中途半端だ、と気づいて諦めてしまう。その世界に浸り、盲目に進み続けることができない。

己の情けなさ、悲しいまでの平凡さから目を逸らしたくなるからこそ、ボードレールの「酔へ!」には横っ面をはたかれたような気がした。

ー「時」に虐げられる奴隷になりたくないなら、絶え間なくお酔いなさい!ー

常に酔っていなければならない、という思想は、人前で酔ってはいけない、と無意識に己を抑えつけて律する自分を激しく叱責する。

馬鹿になってもいい、あるいはあえて馬鹿になることが必要だ。
自分がまとう鎧を脱ぎ捨てて本能のままに酔うということを怖れていては、かえって見えるものも見えない。

自分を開放できないことは、自分に対してあまりにも罪深いことではないか。


何をするでもない、真っ白な時間が、今目の前にある。見通しのない、大きな時間が横たわっている。

無の時間をこれほど長く過ごせるのは、考えようによっては贅沢なことかもしれない。

酔わなければ。
何でもいい、これをやらずにはいられないと、どっぷりと酩酊できるようなものを、理性を忘れるような渇望を、手に取る勇気を持たなければ。

このところ毎日空ける缶ビールをちびちびやりながら、そんなことをとりとめもなく考えている。

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