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村上春樹作品に見る複数の世界の存在 「納屋を焼く」を中心に (1)



私が大学で書いたものを転載しています。


はじめに
 村上春樹の短編『納屋を焼く』(以下、『納屋』)を中心に、複数の同著者作品に目を転じながら、村上作品の文章の特徴を直接的に読みつつ探りたいと思う。寓意であると考えて深読みすることなどをせず、文章そのものをあまり離れずに起こっていることを素直に受け止めて読むことでその特徴を捉え、その視点から物語を解析していく。
 簡単に『納屋』の概要を説明する。「僕」にはたまに会うというガール・フレンドがおり、彼女はあるとき旅で恋人を作って帰ってきた。その二人と「僕」はよく会うこととなり、あるとき「彼」と二人きりで話していると、「彼」は「時々納屋を焼く」のだと話し始める。その一件のあと、「彼」はまた納屋を焼いた。そしてガール・フレンドは消えた。なお、語り手は「僕」と同一である。


1. フラグメントから見る
 「―飛行機は悪天候のために実に四時間も遅れて、そのあいだ僕はコーヒー・ルームでフォークナーの短編集を読んでいた―」。これは『納屋』で、ガール・フレンドを空港に迎えに行った際の一節である(56)。この一節に関して、ほとんど同じ場面が『ダンス・ダンス・ダンス (上)』に見られる。ここでは、ホテルに泊まっていた語り手がひょんな事から同じホテルにいた十三の見知らぬ女の子をついでに東京へ連れて帰るという飛行機が、またもや遅れている。

… 新聞を読んでしまうと、フォークナーの「響きと怒り」の文庫本をバッグから出して読んだ。フォークナーとフィリップ・K・ディックの小説は神経がある種のくたびれかたをしているときに読むと、とても上手く理解できる。そういう時期がくるとかならずどちらかの小説を読むことにしている。それ以外の時期にはまず読まない。(中略)羽田行きの便は四時間遅れて出発するというアナウンスだった(206)

『納屋』が『ダンス・ダンス・ダンス』の以前に書かれたことを考えても、フォークナーを「僕」に読ませるというのは、「僕」が「神経がある種のくたびれかたをしている」ときにあるというささやかな種明かしのように見える。語り手が淡々と物事を受け入れ、遂行しているように見えることの多いこの作品において、フォークナー(を読む)というモチーフはそれによって、語り手(「僕」)が奇異な状況に振り回されながらも精神をすり減らすことのない鈍感な人物というわけでなく、凡庸に繊細さを持ち合わせた人物であると探ることができる(ただ、奇異な事象をわりに自然に受け入れるような性質が見られる)。
 フォークナーの『響きと怒り』(原題:The Sound and the Fury )といえば、語りの一部に「意識の流れ」の構造が用いられる作品である。『納屋』では、マリファナ(大麻煙草)を吸うが、その登場のたびにどういうわけか、小学校の学芸会でやった、子狐が手袋を買うという芝居を思い出す。「意識の流れ」の構造がとられる作品では、それぞれの言葉がフラグメントとなって、それ同士の繋がりで文脈が発見されうる。この子狐の話は、唐突に挿入され、文脈にそぐわず、おわりまでその意味を解明されることがない。その点で読者による「意識の流れ」的文脈解析により、解釈されうる可能性がある。


2. すばらしき日常
 村上作品では、しばしば奇妙なことが、整えられた環境のなかで起こる。そしてその環境の多くは、質の良い食べ物によってもたらされる。『納屋』ではガール・フレンドが「彼」とともに語り手の家へ訪問する際、「彼」の礼儀により食料を持ってくる。

なかなか立派な品揃えだった。質の良い白ワインとロースト・ビーフ・サンドウィッチとサラダとスモーク・サーモンとブルーベリー・アイスクリーム、量もたっぷりある。ロースト・ビーフのサンドウィッチにはちゃんとクレソンも入っていた。辛子も本物だった。料理を皿に移しかえてワインの栓を抜くと、ちょっとしたパーティーみたいになった(60)

また、「彼」がインドから持ってきたという質の良い大麻煙草を吸い、ガール・フレンドが寝てしまうと、「彼」と二人で件の納屋について話し始める。話が佳境になると、大量のビールとカマンベール・チーズで再び場が整えられる。
 整えられるというと、『羊をめぐる冒険(下)』において羊と友達を探して山小屋に滞在することになった語り手はともに来たガール・フレンドに去られ、一人雪の降る山の中、小屋で何日も過ごすことになる。しかしそこには「道を舗装すれば山小屋風レストランが開けそう」(158)なほど十分に満足の食料と調理器具が備えられており、語り手は孤独な何日もを、素晴らしく充実した食生活とともに過ごすのだ。
 だいたい語り手の着ているものの質は悪くなく、豊かに酒を飲み、上質な食料が自ずともたらされることもしばしば、関わる相手も品の良い人間が多い。そのような整った環境を「すばらしき日常」と呼ぼう。その効果とはなんだろうか。第一に、卑劣な事柄に気を揉む物語を著者は、はなから描くつもりがないのかもしれない。第二に、その上質な環境それ自体に惹きつけられる読者は物語にとどまる。第三に、環境が落ち着いていればこそ、奇妙な事象がよりくっきりと浮かび上がってくる。また第四に、足元の破滅を感じないから、読者は絶望しない。土台が崩れない安心感というのは、「夢である」と思えば奇妙なことが起こっても大丈夫だと思う、夢を思う感覚と類似している。あるいは、「すばらしき日常」の中にこそ混沌がひそんでいるということだろうか。


Cited

村上春樹『蛍・納屋を焼く・その他の短編』、昭和六十二年、新潮文庫
『ダンス・ダンス・ダンス(上)』、1991年、講談社文庫
『羊をめぐる冒険(下)』、1985年、講談社文庫


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