今日の大学 R.W.Emerson


今日はエマソンをよく読んだ。
読めば読むほど、「世界」の仕組みを悟った人だな〜と思います。

以下は
堀内正規「第四章 エマソンの<自然>ー岩田慶治の<アニミズム>の視点から」『エマソンー自己から世界へ』南雲堂、2017年、105−24頁

の私の解釈、思ったことです。これ自体はエマソンが書いたものではないです。エマソンへの解釈への解釈。
エマソンの使った『透明の眼球』という比喩が物議を醸しているらしい。

ちなみに読んでないと何を言っているのかよくわからないような文章をなぜ載せているのかは不明。なんとなく覚者に対する解釈なので載せておく...。

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この文章は様々な表現のなかで繰り返し一つのことを語っていると解釈する。ちなみに、「透明な眼球」の比喩についてはほとんど一度で腑に落ちた。

文章に散在している様々な表現をまとめると
・コモン(共有地)=自然=外部=無=無限の空間=普遍=「地」(*)=「全」
・「透明な眼球」=内部
であり、この二つもすなわち=なのである。(内部は外部に裏返る p.109、融合 p.114、主体は裏返される、脱自、嵌入 p.117)
そしてここにエゴは存在しない。

「表面の形が、裏面の無によって裏打ちされている」p.118 は、「色即是空」、 ‘form is emptiness’ あるいは ‘emptiness is form’ であろう。emptiness=nothing と同義とも取れるので、formもすなわちemptiness。

「主体の内側からしか記述できない体験」というのは「外部」また「外部=内部」前提で語っており、「自分(内部)ありき」前提の表現ではない。しかし、その上で、「内的体験」をすることができるというのは「見る」という感覚また表現を生む。外部を知覚するには「自分」は感覚(五感)を通して触れることとなる(=接点 p.113 =開かれ p.121 =自我の解除の瞬間 p.121)。そこに、視覚に必ずしも限らない「見る」という表現がなされているのだと思われる。だから、自分の形(form)は無くなり(nothing、emptiness)、その上での「眼球」という比喩になる。

ソローが例えば「名前」にもまた言及を深める傾向があるのであれば、「内部」からの体験のほうをより信頼している立場にあったのではないかと思う。

(アニミズムについて岩田の論に対し)「柄」と「地」について。「柄」は、文字で読んでいると捉え難く思われたが、自分が生活する中でいちど感じてみようとすると、自分が世界の「柄」となる感覚を覚えることができた。しかし「地」という表現には釈然としないところがある。それの指すものは先の*と同じであろうが、その使われ方からして、「地」はemptinessのニュアンスをもっと含んでいてほしいと思う。「地」だと少しマテリアリスティックな印象を受けるので理解しづらいと感じる。

最後に、「ひとの生において役立てる」とあるが、役立てる、とすると外部にまで拡張した自意識が、結局は内部の世界にとどまる地点に戻ってしまうのではないかという印象を受けるので、具体的にエマソンがどのようなことを言っているのかを見たい。内部の世界にとどまると、人格や政治的意味を見出そうとするのかもしれないが、それは文脈を全く無視していると思われる。


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さらにエマソンの詩 'The Rhodora ON BEING ASKED, WHENCE IS THE FLOWER?' への解釈

(森に入っていくと美しいロードーラの花を発見し、最終的に「私をここにもたらしたのと同じ力がお前をもたらしたのだ」と語る)

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 アメリカ文学における森は、神秘に入っていくような象徴と思われる。森のなかの美しいオブジェクトとしての Rhodora(花)は、理想的、夢想的に描かれる。そして森の中で繰り広げられる語りは、森の外、すなわち社会と対比されるようだ。

 'why this charm is wasted…’ という表現には、「美しさ」のようなものであっても何かの目的を果たさなければならない、何かのためでなければならないといった資本主義のオブセッションが感じられる。しかしエマソンはその続きで ‘beauty is its own excuse for being’ とその捉え方を覆し、資本主義の対極へ位置付ける。

そして ‘Whence is the flower’ ‘why thou wert there’ の答えとして 'The self-same Power that brought me there brought you’ と締めくくっている。ここでは、自らも自分の意思でここへ来たというのではなくthat brought me と何かの力によって存在させられているような表現がされており、自我を感じさせない。そして自分も花も同じ力によって動かされているというのは、自分が存在するのもRhodora が存在するのも現象として同価であり、Rhodora の美が「それ自体存在理由」であるのと同様自分の存在にも理由、目的などない、あるいはそれ自体が理由であるということではないか。


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最近ゼミで扱っている Kate Chopin も、'The Awakening' というタイトルをつけるぐらいなので、内容読むとわかるが悟ってた。



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